問い
中性子のビームを結晶に当てて,散乱された中性子を方向ごとに数えます.すると,ある決まった方向にだけ鋭く強い散乱が現れます.ところが,散乱の際に中性子のスピンの向きがひっくり返ったものだけを選んで数えると,その鋭い山は現れず,どの方向にもほぼ一様に散らばっています.相手はどちらも同じ結晶の同じ原子核です.スピンが反転するかしないかで,なぜ散らばり方がこれほど変わるのでしょうか.
考えてみる
前の題材で,量子力学の基本原理を次のようにまとめました(ここからは道すじを経路とよびます).出来事の確率は複素数の確率振幅の絶対値の2乗で,区別できない経路の振幅は足し,区別できる経路の確率は足します.結晶の散乱に当てはめると,中性子がどの原子核で散乱されたかを区別できなければ振幅を足し,区別できれば確率を足すことになります.
困るのは「区別できる」の意味です.前の題材では,縞を消すのは道すじの記録が残ることだと述べました.ところがスピンが反転した散乱では,どの原子核で散乱されたかを記録する装置はどこにもなく,誰も見ていません.記録がないのだから区別できない,と考えると,スピンが反転した散乱にも鋭い山が現れるはずです.実験はそうなりません.この題材では,振幅を組み合わせる規則をはっきり書き,「区別できる」とは何かを決め直します.
ブラケットの記法
ある状態 𝑠 から出発した粒子が,状態 𝑥 に見つかる確率振幅を
⟨𝑥|𝑠⟩
と書きます.右側が出発の状態,左側が到着の状態で,右から左へ読みます.確率は 𝑃 =|⟨𝑥|𝑠⟩|2 です.𝑠 は「粒子源にある」,𝑥 は「スクリーンの位置 𝑥 にある」のような,粒子について分かっていることの全部です.スピンの向きなども含めたいときは,その情報も括弧の中に書きます.
振幅を掛ける,振幅を足す
法則 振幅の結合規則
続けて起こる過程:𝑠 から中間の状態 1 を通って 𝑥 へ行く振幅は,それぞれの区間の振幅の積 ⟨𝑥|1⟩⟨1|𝑠⟩ である.
区別できない別の経路:同じ出発の状態から同じ到着の状態へ行く経路が複数あり,どれを通ったかが最終の状態に残らないなら,全体の振幅は各経路の振幅の和である.
中間の状態 𝑖 =1, 2, … が,粒子が必ずどれか1つを通る組になっているなら
⟨𝑥|𝑠⟩=∑𝑖⟨𝑥|𝑖⟩⟨𝑖|𝑠⟩
1は確率の積の規則(独立な出来事が続けて起こる確率は積)に対応する振幅の規則で,2が量子力学に特有の部分です.3は1と2を合わせたもので,この章でこれから何度も使います.
2つのスリットを書き直す
2つのスリットの実験を,この規則で書きます.粒子源 𝑠 から出た電子は,スリット1かスリット2を通ってスクリーンの位置 𝑥 に着くので
⟨𝑥|𝑠⟩=⟨𝑥|1⟩⟨1|𝑠⟩+⟨𝑥|2⟩⟨2|𝑠⟩
です.粒子源がスリットの中央にあれば ⟨1|𝑠⟩ =⟨2|𝑠⟩ です.スリットから 𝑥 までの振幅は,距離が波長 𝜆(第29章の 𝜆 =ℎ/𝑝)だけ延びるごとに位相が 2𝜋 進むので,距離を 𝑟1, 𝑟2,波数を 𝑘 =2𝜋/𝜆 として ⟨𝑥|1⟩ ∝𝑒𝑖𝑘𝑟1,⟨𝑥|2⟩ ∝𝑒𝑖𝑘𝑟2 とおけます(大きさの違いは無視します).すると
𝑃(𝑥)∝∣𝑒𝑖𝑘𝑟1+𝑒𝑖𝑘𝑟2∣2=2[1+cos𝑘(𝑟1−𝑟2)]
で,経路差が波長の整数倍の所が明るい縞になります.第27章の光の干渉と同じ式ですが,ここで足しているのは電子1個の振幅です.
[図:2つのスリットを通る振幅]粒子源sからスリット1または2を通り,スクリーンの同じ点xに着く.矢印はsからxへ向かい,各区間に振幅⟨1|s⟩,⟨x|1⟩,⟨2|s⟩,⟨x|2⟩を示す.
区別できるとは
前の題材の,スリットの後ろに光を当ててどちらを通ったかを調べる実験を,この記法で書き直します.このとき到着の状態は「電子が 𝑥 にあり,光子が検出器 𝐷1 に入った」のように,光子の状態まで含めて書かなければなりません.電子がスリット1を通れば光子は 𝐷1 へ,スリット2を通れば 𝐷2 へ行くなら,2つの経路の到着の状態は違います.違う到着の状態の振幅は足せないので,確率は
𝑃(𝑥)=|⟨𝑥,𝐷1|𝑠⟩|2+|⟨𝑥,𝐷2|𝑠⟩|2
となり,縞は消えます.
ポイント 区別できる経路
規則2の「最終の状態」は,粒子だけでなく,過程にかかわった世界の全部(光子,原子核のスピン,装置)の状態である.経路ごとに最終の状態が違えば,その記録を誰かが読むかどうかに関係なく,振幅は足せず確率を足す.
似た操作でも,経路をふさぐのと記録するのは違います.ふさぐと,その経路の振幅が0になり,残った経路どうしは干渉します.記録すると,その経路の粒子も検出されますが,他の経路と干渉しなくなります.また,途中で粒子が吸収されることがあると,すべての到着先の確率の和は1より小さくなります.「透過した粒子のうち 𝐷 に着く割合」を問うときは,𝐷 の確率を透過する確率で割ります.
結晶による散乱
結晶に波長 𝜆 の中性子を当てます.中性子は原子核1つで1回だけ散乱されるとし,原子核 𝑗 で散乱されて検出器 𝐷 に着く振幅を 𝜙 𝑒𝑖𝛼𝑗 と書きます.𝛼𝑗 は,原子核 𝑗 を通る道のりで決まる位相です.スピンが反転しない散乱では,どの原子核で散乱しても最終の状態は同じなので
⟨𝐷|𝑠⟩=𝑁∑𝑗=1𝜙𝑒𝑖𝛼𝑗
です.間隔 𝑑 で並んだ原子の面で,入射角と散乱角がそろう向き(面に対する角 𝜃)を考えると,隣り合う面の道のりの差は 2𝑑sin𝜃 です.これが波長の整数倍
2𝑑sin𝜃=𝑛𝜆
(ブラッグの条件)なら,すべての位相がそろい,振幅は 𝑁𝜙,確率は 𝑁2|𝜙|2 になります.位相がそろわない方向では,多数の振幅がほとんど打ち消し合います.これが鋭い山の正体です.
[図:隣り合う原子の面で散乱される2本の経路]間隔dの原子の面に,中性子が面に対する角θで左上から入り,同じ角θで右上へ散乱される.下の面を通る経路の余分な長さは入射側と散乱側でそれぞれd sin θとなり,合計は2d sin θである.
スピンが反転する散乱はどうでしょう.中性子のスピンの向きが変わると,角運動量の保存から,散乱した原子核のスピンの向きが逆に変わります.すると最終の状態は「原子核 𝑗 のスピンだけが変わった結晶」で,𝑗 ごとに違います.誰も原子核のスピンを調べなくても,どの原子核で散乱したかが結晶に記録されているのです.反転の振幅を 𝜙′ とすると,確率を足して
𝑃′=𝑁∑𝑗=1|𝜙′|2=𝑁|𝜙′|2
で,方向による違いはありません.
[図:スピン反転の有無と散乱の角分布]スピンが反転しない散乱はブラッグの条件を満たす角で鋭い山をもち,山の高さはN²|φ|²に比例する.スピンが反転する散乱はどの角でも平らで,強さはN|φ′|²に比例する.2つの散乱を別々の曲線で示す模式図である.
この計算は,散乱が弱く1回だけ起こる場合(中性子が結晶の中で2回以上散乱される確率が十分小さい場合)の模型です.原子核の熱振動も無視しています.山の高さは 𝑁2 に比例しますが,山の幅は 1/𝑁 ほどに狭くなるので,全方向について足した散乱の確率は 𝑁 に比例し,確率の和が1を超えることはありません.
同じ粒子どうしの散乱へ
「最終の状態が同じなら振幅を足す」という規則は,もう1つの場合に効いてきます.2つの同じ粒子が衝突して,検出器 𝐷1 と 𝐷2 に1つずつ入ったとき,どちらの粒子が 𝐷1 に入ったかは原理的に区別できません.すると,入れ替えた2つの経路の振幅を足すことになります.これが次の題材の主題です.
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スピンが反転しない散乱では,どの原子核で散乱されても結晶は元のままなので,𝑁 個の振幅を足します.ブラッグの条件を満たす方向でだけ位相がそろって確率が 𝑁2 倍になり,鋭い山ができます.スピンが反転する散乱では,散乱した原子核のスピンが変わり,結晶の中に「どこで散乱したか」の記録が残ります.記録が残る経路の振幅は足せないので確率を足し,どの方向にも 𝑁 に比例する平らな散乱になります.記録を読む人がいるかどうかは関係ありません.
ポイント ここまでのまとめ
⟨𝑥|𝑠⟩ は 𝑠 から出発して 𝑥 に見つかる振幅で,確率は |⟨𝑥|𝑠⟩|2 である.
続けて起こる過程は振幅を掛け,区別できない経路は振幅を足す.⟨𝑥|𝑠⟩ =∑𝑖⟨𝑥|𝑖⟩⟨𝑖|𝑠⟩.
区別できるかどうかは,世界の全部を含めた最終の状態が経路ごとに違うかで決まる.
記録のない結晶散乱はブラッグの条件 2𝑑sin𝜃 =𝑛𝜆 で 𝑁2 に比例する山を作り,記録の残るスピン反転の散乱は 𝑁 に比例して方向によらない.