問い
細い管に水素を詰めて電圧をかけると,管は赤紫色に光ります.この光をプリズムや回折格子(第27章)で分けると,太陽の光のような連続した虹にはならず,赤・青緑・青紫・紫の数本の細い線だけが並びます.線の波長は何度測っても同じで,どの水素でも同じです.水素原子はなぜ決まった色の光しか出さないのでしょうか.
考えてみる
まず原子の中がどうなっているかを確かめます.20世紀の初め,ラザフォードたちは薄い金箔にアルファ粒子(ヘリウムの原子核,電荷 +2𝑒)を当て,ほとんどはまっすぐ抜けるのに,ごくまれに大きく跳ね返されることを見つけました.正の電荷が原子全体に薄く広がっていたら,そんな大きな力は出ません.跳ね返りの角度の分布は,点のような正電荷とのクーロン力による双曲線軌道(第10章の中心力の運動と同じ形)でよく説明でき,正の電荷と質量のほとんどが中心の小さな原子核に集まっていることが分かりました.
どれほど小さいかは,正面衝突の最接近距離で見積もれます.運動エネルギー 𝐾 =5.0 MeV のアルファ粒子が金の原子核(𝑍 =79)に向かうと,第20章の電位の中の運動として,エネルギー保存 𝐾 =𝑘(2𝑒)(𝑍𝑒)/𝑑 から止まる距離は
𝑑=2𝑍𝑘𝑒2𝐾=2×79×1.44MeVfm5.0MeV≈45fm=4.5×10−14m
です.ここで 𝑘 =14𝜋𝜀0,𝑘𝑒2 =1.44 eVnm =1.44 MeVfm を使いました.原子の大きさ 10−10 m の1000分の1より小さい所までクーロンの法則が成り立っていて,原子核はそれより小さいのです.
[図:金の原子核によるアルファ粒子の散乱]左から同じ運動エネルギーKで入射する電荷+2eのアルファ粒子が,電荷+Zeの金の原子核に反発される.遠い軌道の曲がりは小さく,近い軌道ほど大きく曲がる.正面衝突では最接近距離dで折り返す.往路と復路は同じ直線上に重なるため,復路のみ少し下にずらして示す.原子核の大きさは模式的である.
そこで水素原子を,陽子のまわりを電子が回る小さな太陽系と考えたくなります.ところが第26章で見たように,加速度運動する電荷は電磁波を出してエネルギーを失います.計算すると,電子は渦を巻いておよそ 10−11 s で原子核に落ちてしまい,その間に出す光の振動数は回転とともに連続的に変わります.古典物理学では,原子は安定でもなく,線スペクトルも出せないのです.
水素のスペクトル
水素の線の波長 𝜆 は,きれいな規則に従います.
法則 リュードベリの式
水素原子が出す光の波長は,正の整数 𝑛′ <𝑛 を使って
1𝜆=𝑅(1𝑛′2−1𝑛2),𝑅=1.097×107m−1
と表される.𝑅 をリュードベリ定数という.𝑛′ が同じ線の組を系列といい,𝑛′ =1 をライマン系列(紫外線),𝑛′ =2 をバルマー系列(可視光を含む),𝑛′ =3 をパッシェン系列(赤外線)という.
両辺に ℎ𝑐 を掛けると,光子のエネルギー ℎ𝜈 =ℎ𝑐/𝜆 が「ある量 /𝑛′2」と「ある量 /𝑛2」の差になっています.前の題材で見たように,光子のエネルギーが2つの準位の差 ℎ𝜈 =𝐸𝑛 −𝐸𝑛′ なら,水素原子の準位は
𝐸𝑛=−ℎ𝑐𝑅𝑛2(𝑛=1,2,3,…)
と飛び飛びのはずです.問題は,なぜこの形になるか,𝑅 がどんな定数で決まるかです.
[図:準位の遷移と水素の線スペクトル]初期状態は下の準位n′=2で,n=3から6までの下向きの遷移と,可視光の帯に入る4本のスペクトル線を示す.スライダーでn′を1,2,3に変えると,ライマン,バルマー,パッシェン系列に切り替わる.波長軸は系列ごとに範囲を変える.準位図の軸の切れ目は省略を表し,スペクトルの破線は系列の限界を表す.
初期状態は下の準位n′=2で,n=3から6までの下向きの遷移と,可視光の帯に入る4本のスペクトル線を示す.スライダーでn′を1,2,3に変えると,ライマン,バルマー,パッシェン系列に切り替わる.波長軸は系列ごとに範囲を変える.準位図の軸の切れ目は省略を表し,スペクトルの破線は系列の限界を表す.
ボーア模型
1913年,ボーアは次の2つを仮定しました.
法則 ボーアの仮定
定常状態:原子の中の電子は,飛び飛びのエネルギー 𝐸𝑛 をもつ特別な状態にだけいることができ,その状態にいる間は光を出さない.
振動数条件:電子がエネルギー 𝐸𝑛 の状態から 𝐸𝑛′ の状態へ移るとき,ℎ𝜈 =𝐸𝑛 −𝐸𝑛′ の光子を1個出す(𝐸𝑛′ >𝐸𝑛 なら吸収する).
どの軌道が定常状態かは,前の題材の「閉じこめると定常波だけが残る」で決めます.電子の円軌道に沿ってド・ブロイ波(𝜆 =ℎ/(𝑚𝑣))を考えると,1周してもとの位置に戻ったとき位相がそろっていなければ,波は打ち消し合ってしまいます.円周が波長の整数倍
2𝜋𝑟=𝑛𝜆=𝑛ℎ𝑚𝑣すなわち𝑚𝑣𝑟=𝑛ℏ
の軌道だけが残る,というのが量子条件です.角運動量 𝑚𝑣𝑟 が ℏ の整数倍になる,と読むこともできます.
[図:円軌道のド・ブロイ波と量子条件]初期状態はn=3で,円周に3波長がのり,半径は9a₀になる.スライダーは1から5まで0.1刻みで動かせる.整数では波がつながり,整数でない値では端がずれる.左は半径を同じ縮尺で比較し,右は波のつながりを見やすく拡大する.波打つ線は電子の経路ではなく波の位相の模式表示である.整数でない値の半径は比較のための補間であり,許された軌道ではない.
初期状態はn=3で,円周に3波長がのり,半径は9a₀になる.スライダーは1から5まで0.1刻みで動かせる.整数では波がつながり,整数でない値では端がずれる.左は半径を同じ縮尺で比較し,右は波のつながりを見やすく拡大する.波打つ線は電子の経路ではなく波の位相の模式表示である.整数でない値の半径は比較のための補間であり,許された軌道ではない.
陽子の質量は電子の約1836倍なので,まず陽子を止まっているとします.電子(質量 𝑚,電荷 −𝑒)の等速円運動の運動方程式と量子条件を連立します.
𝑚𝑣2𝑟=𝑘𝑒2𝑟2,𝑚𝑣𝑟=𝑛ℏ
2つ目から 𝑣 =𝑛ℏ/(𝑚𝑟) を1つ目に代入すると,半径とエネルギーが決まります.エネルギーは運動エネルギー 12𝑚𝑣2 =𝑘𝑒22𝑟 と位置エネルギー −𝑘𝑒2𝑟 の和です.
定理 水素原子のボーア模型
𝑟𝑛=𝑛2𝑎0,𝑎0=ℏ2𝑚𝑘𝑒2=5.29×10−11m
𝐸𝑛=−𝑘𝑒22𝑟𝑛=−𝐵𝑛2,𝐵=𝑚𝑘2𝑒42ℏ2=13.6eV
𝑎0 をボーア半径という.𝐵 は基底状態(𝑛 =1)の電子を無限遠に引き離す電離エネルギーである.
これを振動数条件に入れると,リュードベリの式がそのまま出て,
𝑅=𝐵ℎ𝑐=𝑚𝑘2𝑒44𝜋ℏ3𝑐=1.097×107m−1
と,測定値が 𝑚, 𝑒, ℎ, 𝑐, 𝜀0 だけから計算できます.前の題材の例題3で不確定性から見積もった原子の大きさが,ここでは係数まで 𝑎0 として出てきたのも,この模型の成功です.波長の計算には ℎ𝑐 =1240 eVnm が便利です.
模型が使える条件も確かめておきます.基底状態の電子の速さは 𝑣1 =ℏ/(𝑚𝑎0) =2.19 ×106 ms−1 で,𝑣1/𝑐 =1/137 です.この比が小さいので,相対論を使わない力学でよいのです.ただし,ボーア模型は電子が1個の原子にしか使えず,線の明るさも説明できません.また,実際の基底状態の角運動量は0で,電子は円軌道ではなく原子核のまわりに雲のように広がっています.エネルギー準位が正しく出るのは,定常波という考えが正しいからで,正確な答えは3次元の波動方程式から出ます.
水素型イオンと換算質量
電子が1個だけのイオン(He𝐴+,Li𝐴2+ など)を水素型イオンといいます.原子核の電荷が 𝑍𝑒 なら,上の式の 𝑘𝑒2 が 𝑍𝑘𝑒2 に変わるので
𝑟𝑛=𝑛2𝑎0𝑍,𝐸𝑛=−𝑍2𝐵𝑛2
です.
陽子を止めておいたのは近似です.実際は電子と原子核(質量 𝑀)が共通の重心のまわりを回ります.第5章の2体問題と同じく,相対運動は質量を換算質量 𝜇 =𝑚𝑀𝑚+𝑀 に置きかえた1体の運動になります.エネルギー準位は 𝑚 に比例していたので,𝐸𝑛 = −𝑍2𝐵𝑛2𝜇𝑚 となります.水素では 𝜇/𝑚 =1836/1837 で,固定した場合より準位が 1/1837 =5.4 ×10−4 だけ浅くなります.重水素では原子核が約2倍重いので補正が半分になり,同じ線の波長がわずかに短くなります.1932年,ユーリーはこの約 0.18 nm のずれを見つけて重水素を発見しました.固定核の近似は 𝑚/𝑀 が十分小さいときの近似で,電子より重い粒子が回る原子では換算質量が欠かせません.
電子をぶつけて準位を確かめる
準位が飛び飛びなら,光でなく電子をぶつけても,原子は決まったエネルギーしか受け取らないはずです.1914年のフランク・ヘルツの実験はこれを確かめました.水銀の蒸気の中で電子を加速すると,電子のエネルギーが 4.9 eV に達するまでは,原子と衝突しても運動エネルギーをほとんど失いません(質量比が小さい弾性衝突なので).4.9 eV を超えると,原子を励起して 4.9 eV を失います.このとき蒸気は波長 1240/4.9 =253 nm の紫外線を出しました.衝突で失うエネルギーと,出てくる光子のエネルギーが一致したのです.
特性X線とモーズリーの法則
第1題材で見たX線管の連続X線の上には,陽極の元素で決まる鋭い線がのります.これが特性X線です.高速の電子が陽極の原子の一番内側(𝑛 =1)の電子をはじき出すと,その空席に 𝑛 =2 の電子が落ちて光子を出します.内側の電子にとって,原子核の電荷 𝑍𝑒 は,残ったもう1個の 𝑛 =1 の電子でほぼ 𝑒 だけ打ち消されるので,水素型の式で 𝑍 を 𝑍 −1 に置きかえて
ℎ𝜈=34(𝑍−1)2𝐵
と見積もれます.√𝜈 が 𝑍 −1 に比例する,というのがモーズリーの法則です.銅(𝑍 =29)では ℎ𝜈 =8.0 keV,波長 0.155 nm で,測定値 0.154 nm とよく合います.モーズリーはこれで原子番号が原子核の電荷であることを確かめ,周期表の空き場所を予言しました.内側の電子の速さは 𝑣/𝑐 ≈𝑍/137 なので,重い元素ではこの近似は粗くなります.
線の幅と寿命
励起状態の原子は,光を出して下の準位へ落ちるまでに平均して時間 𝜏(寿命,水素の 𝑛 =2 で約 2 ×10−9 s)だけかかります.長さ 𝜏 で切れた波は,第25章のうなりのように,振動数に Δ𝜔 ∼1/𝜏 の広がりをもちます.光子のエネルギーで言えば
Δ𝐸𝜏∼ℏ
で,スペクトル線は Δ𝐸 だけの幅(自然幅)をもちます.𝜏 =1 ×10−8 s なら Δ𝐸 ∼7 ×10−8 eV で,線のエネルギーの 10−7 程度のごく小さな幅です.位置と運動量の不確定性 Δ𝑥 Δ𝑝 ∼ℎ は同時に測る2つの量の関係でしたが,こちらの 𝜏 は粒子の測定値ではなく,状態が続く時間の長さです.なお,光子を出した原子は運動量 ℎ𝜈/𝑐 で反跳するので,光子のエネルギーは準位差よりわずかに小さく,その差 (ℎ𝜈)2/(2𝑀𝑐2) が自然幅と同じ程度になることもあります.
誘導放出とレーザー
励起状態の原子は,ひとりでに光子を出すだけでなく,準位差と同じエネルギーの光子が通りかかると,それと同じ向き・同じ位相の光子を出して下に落ちることがあります.これを誘導放出といいます.上の準位にいる原子の方が多い状態(反転分布)を作ると,光子が1個入るたびに同じ光子が増えていき,向きと位相のそろった強い光ができます.これがレーザーです.なぜ同じ状態の光子が増えやすいのかは,次の第30章(発展)で確率振幅を使って説明します.
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水素原子の電子は,ド・ブロイ波が軌道に沿って定常波になる状態にしかいられず,そのエネルギーは 𝐸𝑛 = −13.6 eV/𝑛2 と飛び飛びです.原子が出す光子のエネルギーは2つの準位の差なので,波長も決まった値だけになり,線スペクトルになります.目に見えるのは 𝑛′ =2 へ落ちるバルマー系列の4本です.どの水素原子も同じ 𝑚, 𝑒, ℎ で決まる同じ準位をもつので,遠い星の水素も同じ線を出します.
ポイント ここまでのまとめ
ラザフォード散乱から,原子の正電荷と質量は 10−14 m より小さい原子核に集まっている.
量子条件 2𝜋𝑟 =𝑛𝜆(𝑚𝑣𝑟 =𝑛ℏ)から 𝑟𝑛 =𝑛2𝑎0,𝐸𝑛 = −𝐵/𝑛2,𝐵 =13.6 eV,𝑎0 =5.29 ×10−11 m.
振動数条件 ℎ𝜈 =𝐸𝑛 −𝐸𝑛′ からリュードベリの式が出て,𝑅 =𝐵/(ℎ𝑐).
水素型イオンは 𝐸𝑛 = −𝑍2𝐵/𝑛2,原子核の運動は換算質量 𝜇 で補正する.特性X線は 𝑍 を 𝑍 −1 とした近似で √𝜈 ∝𝑍 −1.
寿命 𝜏 の準位からの線は自然幅 Δ𝐸 ∼ℏ/𝜏 をもつ.