問い
水に落とした絵の具の細かい粒を顕微鏡でのぞくと,粒は止まることなくふるえ続けます.水は静かに置いてあり,誰も揺すっていません.粒を動かし続けているのは何でしょうか.また,粒は時間とともにどれくらい遠くまで行くのでしょうか.
考えてみる
粒は,周りの水の分子に四方八方から絶えずぶつけられています.もし分子が完全に均等にぶつかれば,力は打ち消し合って粒は動きません.しかし,ぶつかる分子の数は時々刻々ゆらぎます.ある瞬間には右から多く,次の瞬間には左から多く当たります.
どれくらいゆらぐのでしょうか.ある短い時間に左右の面へそれぞれ平均 𝑁 回ずつ衝突があるとすると,あとで見るように回数の差は 𝑁 ではなく √𝑁 程度で,差の割合 1/√𝑁 は 𝑁 が大きいほど小さくなるものの0にはなりません.粒が小さいほど 𝑁 が小さく,この不均衡が目立ちます.直径 1 𝜇m の粒がふるえ,1 mm の砂粒がふるえないのは,このためです.
困るのは,押す向きがでたらめなことです.右へ押される回数と左へ押される回数は平均すれば同じなので,平均の変位は0です.それでも粒は少しずつ出発点から離れていきます.「平均すれば0なのに離れていく」とはどういうことかを,最も単純な模型で考えます.
ランダムウォーク
直線の上で,1歩ごとに確率 12 で右か左へ長さ 𝑙 だけ進む酔歩(ランダムウォーク)を考えます.𝑘 歩目の変位を 𝑠𝑘 = ±𝑙 とすると,どの歩も平均は ⟨𝑠𝑘⟩ =0 で,異なる歩は互いに独立です.これから使う仮定はこの2つだけです.𝑁 歩後の位置は 𝑥𝑁 =𝑠1 +𝑠2 +⋯ +𝑠𝑁 なので,平均は ⟨𝑥𝑁⟩ =0 です.ところが2乗の平均を見ると,𝑥𝑁 =𝑥𝑁−1 +𝑠𝑁 から
⟨𝑥2𝑁⟩=⟨𝑥2𝑁−1⟩+2⟨𝑥𝑁−1𝑠𝑁⟩+⟨𝑠2𝑁⟩=⟨𝑥2𝑁−1⟩+𝑙2
となります.𝑠𝑁 はそれまでの歩みと独立で,しかも平均が0なので,真ん中の項は ⟨𝑥𝑁−1𝑠𝑁⟩ =⟨𝑥𝑁−1⟩⟨𝑠𝑁⟩ =0 です.これを 𝑁 回繰り返せば次を得ます.
ポイント ランダムウォークの法則
各歩が互いに独立で,1歩の変位の平均が0である 𝑁 歩の酔歩では,平均の変位は ⟨𝑥𝑁⟩ =0 だが,2乗平均は ⟨𝑥2𝑁⟩ =𝑁𝑙2 である.広がりの目安は
√⟨𝑥2𝑁⟩=√𝑁𝑙
で,歩数の平方根に比例する.1歩に時間 𝜏 かかるなら 𝑁 =𝑡/𝜏 なので,⟨𝑥2⟩ =(𝑙2/𝜏) 𝑡 と時間に比例して増える.
一直線に進めば距離は 𝑁𝑙 ですが,でたらめに進むと √𝑁 𝑙 しか進みません.100歩で10歩分,1万歩でも100歩分です.歩数を100倍にしても,遠ざかる距離は10倍にしかなりません.
2つの仮定はどちらも要ります.右へ進みやすい偏った歩では ⟨𝑥𝑁⟩ =𝑁⟨𝑠⟩ ≠0 で,交差項も ⟨𝑠𝑗𝑠𝑘⟩ =⟨𝑠⟩2 ≠0 ですから ⟨𝑥2𝑁⟩ =𝑁𝑙2 は使えません.独立でさえあれば平均0でなくても足し算になるのは分散のほうで,𝜎2𝑥 =𝑁𝜎2𝑠,2乗平均は ⟨𝑥2𝑁⟩ =⟨𝑥𝑁⟩2 +𝑁𝜎2𝑠 です(演習5).
[図:同じ歩数の平面ランダムウォーク]同じ出発点から,歩幅 l で64歩進む3本の軌跡を重ねた.点線円の半径は √N l=8l で,終点はその内外に散らばる.円は広がりの目安であり,すべての粒を囲む境界ではない.
平面や空間でも同じです.𝑘 歩目のベクトルを 𝒍𝑘(大きさ 𝑙),その和を 𝑹𝑁 とすると ⟨|𝑹𝑁|2⟩ =∑𝑘⟨|𝒍𝑘|2⟩ +∑𝑗≠𝑘⟨𝒍𝑗 ⋅𝒍𝑘⟩ です.向きが互いに独立で,しかもどの向きも等しく起こりやすい(等方的な)歩なら ⟨𝒍𝑘⟩ =0 なので,異なる歩の内積は平均して0になり,交差項が消えて ⟨|𝑹𝑁|2⟩ =𝑁𝑙2 となります.等方性からさらに3方向の寄与が等しくなり,3次元では ⟨𝑥2⟩ =⟨𝑦2⟩ =⟨𝑧2⟩ =13𝑁𝑙2 です.向きに偏りがあれば,この 13 も使えません.
ゆらぎと摩擦は切り離せない
粒そのものも熱平衡にある系の一員です.第17章の等分配則は,分子より何億倍も重い粒にも当てはまり,12𝑚⟨𝑣2⟩ =32𝑘𝐵𝑇 が成り立ちます.半径 0.50 𝜇m,密度 1.0 ×103 kgm−3 の粒なら 𝑚 ≈5.2 ×10−16 kg で,√⟨𝑣2⟩ ≈5 mms−1 です.ずいぶん速いのに顕微鏡で見てもほとんど進まないのは,向きがひっきりなしに変わるからです.
粒は,分子にたたかれるだけでなく,動けば水から抵抗を受けます.平均の速度 𝒗 に対する抵抗を −𝒗/𝜇𝑚 と書き,𝜇𝑚 を移動度とよびます(一定の力 𝑭 に対する平均の速度が 𝒗 =𝜇𝑚𝑭 になる,という定義です).たたく力と抵抗はどちらも同じ水の分子から来るので,無関係ではありえません.アインシュタインは等分配則を橋渡しに,両者を結びつけました.
法則 アインシュタインの関係
温度 𝑇 の液体中の粒の1方向の平均2乗変位は,時間に比例して
⟨𝑥2⟩=2𝜇𝑚𝑘𝐵𝑇𝑡
となる(3次元では ⟨|𝒓|2⟩ =6𝜇𝑚𝑘𝐵𝑇𝑡).半径 𝑎 の球が粘性率 𝜂 の液体中をゆっくり動くときはストークスの法則で 𝜇𝑚 =1/(6𝜋𝜂𝑎) なので
⟨𝑥2⟩=𝑘𝐵𝑇3𝜋𝜂𝑎𝑡
である.
[図:平均2乗変位は時間に比例する]横軸は時間 t,縦軸は変位の2乗である.個々の粒の x² は増減するが,多数の粒の平均 ⟨x²⟩ は原点を通る直線となり,傾きは 2μ_m k_B T である.細線は少数の軌跡の例で,その厳密な平均を太線として描いたものではない.
形だけなら見積もれます.速度の記憶が消えるまでの時間は,抵抗だけの運動方程式 𝑚˙𝑣 = −𝑣/𝜇𝑚 の時定数 𝜏𝑣 =𝑚𝜇𝑚 です.これを1歩の時間とみなすと1歩の長さは 𝑙 ≈√𝑘𝐵𝑇/𝑚 ⋅𝜏𝑣,歩数は 𝑡/𝜏𝑣 なので
⟨𝑥2⟩≈𝑡𝜏𝑣𝑙2=𝑘𝐵𝑇𝑚𝜏𝑣𝑡=𝜇𝑚𝑘𝐵𝑇𝑡
となり,確かに 𝜇𝑚𝑘𝐵𝑇 と時間の積になります.抵抗が大きいほど広がりにくく,温度が高いほど広がりやすいことも読み取れます.きちんとした導出は次の節で扱います.
右辺には 𝑘𝐵 =𝑅/𝑁𝐴 が隠れています.⟨𝑥2⟩,𝑇,𝜂,𝑎 はどれも顕微鏡と実験室で測れるので,𝑘𝐵,つまりアボガドロ数 𝑁𝐴 が決まります.目に見えない分子の個数が,目に見える粒のふるえから分かるのです.
ポイント ここまでのまとめ
ブラウン運動は,周りの分子の衝突のゆらぎが粒を押し続けることで起こる.衝突回数の不均衡は √𝑁 程度で,粒が小さいほど目立つ.
各歩が独立で平均0の 𝑁 歩のランダムウォークでは ⟨𝑥⟩ =0,⟨𝑥2⟩ =𝑁𝑙2.交差項が消えるので,距離は √𝑁 に比例する.偏った歩では,足し算できるのは分散だけである.
粒にも等分配則が成り立ち,12𝑚⟨𝑣2⟩ =32𝑘𝐵𝑇.ゆらぎと抵抗はアインシュタインの関係 ⟨𝑥2⟩ =2𝜇𝑚𝑘𝐵𝑇𝑡 で結ばれる.
この式から 𝑘𝐵 とアボガドロ数が測れる(ペランの実験).
問いの答え:粒を動かすのは水の分子の衝突のゆらぎで,粒が離れる距離は時間に比例せず,時間の平方根に比例する.