問い
富士山の山頂(標高およそ 3800 m)では,気圧は地上のおよそ3分の2しかありません.空気の分子は重力で下に引かれているのに,なぜ全部が地面に積もってしまわないのでしょうか.そして,上に行くほど薄くなる割合は,何で決まっているのでしょうか.
第15章の温度も第16章の熱と仕事も「平均」の話で,分子1個1個がどれだけのエネルギーを持っているかには触れていません.この章では,その分かれ方そのものを決める規則を見つけます.第16章でラチェットの頻度を比べるときに形だけ借りた指数関数も,ここで導きます.
考えてみる
重力だけがはたらくなら分子は落ちて床に積もり,熱運動だけなら容器の中に一様に広がります.実際の大気はその中間で,落とそうとする重力と散らばろうとする熱運動の「綱引き」の結果です.困るのは,1個の分子が上がり下がりを絶えず繰り返していて,ある高さに留まるわけではないことです.決まるのは「どの高さにどれだけの割合の分子がいるか」という分布だけなので,それを力のつり合いから求めてみましょう.
等温大気の密度
温度 𝑇 が高さによらず一定の大気を考えます.高さ ℎ での数密度を 𝑛(ℎ),分子1個の質量を 𝑚 とすると,断面積 𝑆,厚さ dℎ の薄い層の力のつり合いは,下の面と上の面の圧力の差が層の重さを支えることを表します.
𝑝(ℎ)−𝑝(ℎ+dℎ)=𝑚𝑔𝑛(ℎ)dℎ
[図:空気の薄い層の力のつり合い]断面積S,厚さdhの空気の層に,下の面からp(h)Sが上向きに,上の面からp(h+dh)Sと層の重さmgn(h)Sdhが下向きにはたらく.圧力差が層の重さを支える.
状態方程式 𝑝 =𝑛𝑘𝐵𝑇 を使うと 𝑘𝐵𝑇d𝑛dℎ = −𝑚𝑔𝑛 で,第4章の空気抵抗と同じ形の微分方程式です.解くと
公式 等温大気
𝑛(ℎ)=𝑛(0)exp(−𝑚𝑔ℎ𝑘𝐵𝑇),𝐻=𝑘𝐵𝑇𝑚𝑔
数密度も圧力も,高さとともに指数関数的に減る.高さ 𝐻(スケールハイト)上がるごとに 1/𝑒 倍になる.
空気の分子の平均質量 𝑚 ≈4.8 ×10−26 kg と 𝑇 =280 K で 𝐻 ≈8 km です.「同じ高さを登れば,どこでも同じ割合で薄くなる」のは指数関数の特徴そのものです.上空ほど冷たいので厳密な指数関数ではありませんが,数 km の範囲ではよく合います.
成分ごとに当てはめると,重い分子ほど 𝐻 が小さいので上空では軽い成分が増えます.ただしこれは,各成分が拡散だけでつり合った(拡散平衡の)模型の話です.実際の対流圏では風と対流の混合がずっと速く,高さ 100 km あたりまで成分比はほぼ一定で,分離が見えるのは混合の弱いそれより上か,混合を抑えた装置の中(遠心分離)だけです.
熱浴の状態数から導く
指数の中の 𝑚𝑔ℎ は,高さ ℎ にある分子の位置エネルギーです.つまり,位置エネルギーが 𝐸 の場所にいる分子の割合は exp( −𝐸/𝑘𝐵𝑇) に比例していました.重力に特有の事情は何も使っていないので,この形は力のつり合いを立てずに,もっと一般の場合に導けるはずです.
注目する系(分子1個でも,容器に入った気体全体でも,ばねにつるした小さな鏡でもよい)を小系とよびます.小系はそれよりずっと大きな物体(熱浴)と接して熱平衡にあり,両者を合わせた全体は外から孤立して全エネルギー 𝐸全 が決まっているとします.孤立した系について,統計力学はただ1つの仮定から出発します.
ポイント 等重率の仮定
孤立した系では,許されたエネルギーをもつ微視状態は,どれも等しい確率で実現する.
小系が微視状態 𝑖(エネルギー 𝐸𝑖)にあるとき,熱浴のエネルギーは 𝐸全 −𝐸𝑖 で,そのときの熱浴の微視状態は Ω浴(𝐸全 −𝐸𝑖) 通りあります.全体の微視状態がどれも等確率なら,小系が 𝑖 にある確率はこの数に比例します.
𝑃𝑖∝Ω浴(𝐸全−𝐸𝑖)
状態数そのものは分子数の指数で変わる途方もない量ですが,対数をとればおとなしくなります.第16章のボルツマンの関係 𝑆 =𝑘𝐵lnΩ を使い,𝐸𝑖 が 𝐸全 に比べて十分小さいことから1次まで展開すると(第6章のテイラー展開)
𝑆浴(𝐸全−𝐸𝑖)≃𝑆浴(𝐸全)−𝐸𝑖(𝜕𝑆浴𝜕𝑈)𝑉,𝑁
です.ここに現れた微分は,温度の逆数です.体積と分子数を固定した物体に,体積仕事なしで可逆に熱 d𝑄 を入れると d𝑈 =d𝑄 で,エントロピーの定義 d𝑆 =d𝑄/𝑇 から
(𝜕𝑆𝜕𝑈)𝑉,𝑁=1𝑇
となります.したがって Ω浴 =exp(𝑆浴/𝑘𝐵) のうち 𝐸𝑖 に依る部分は exp( −𝐸𝑖/𝑘𝐵𝑇) だけで,残りは 𝑖 によらない定数です.確率の和を1にすれば形が決まります.
法則 正準分布(ボルツマン分布)
温度 𝑇 の大きな熱浴と弱く接し,体積と分子数を固定した系が熱平衡にあるとき,その系が微視状態 𝑖(エネルギー 𝐸𝑖)にある確率は
𝑃𝑖=1𝑍exp(−𝐸𝑖𝑘𝐵𝑇),𝑍=∑𝑖exp(−𝐸𝑖𝑘𝐵𝑇)
である.exp( −𝐸/𝑘𝐵𝑇) をボルツマン因子,規格化の分母 𝑍 を分配関数という.2つの微視状態の確率の比は exp[ −(𝐸1 −𝐸2)/𝑘𝐵𝑇] で,エネルギーの基準をどこにとっても変わらない.
使った条件は3つです.熱浴が大きくて,小系がやりとりするエネルギーでは熱浴の温度が変わらないこと(展開の2次の項は熱浴の熱容量が大きいほど小さく,これが 𝑇 を定数として扱えることの中身です),相互作用が弱くて 𝐸全 =𝐸𝑖 +𝐸浴 と足し算に分けられること,熱平衡で分子の出入りがないことです.小系は小さくなくてよく,1個の分子でも 1023 個の気体でもかまいません(𝐸𝑖 は小系全体のエネルギーです).孤立系の等重率とこの正準分布は別の主張で,孤立系ではエネルギーが決まって状態が等確率,熱浴に接した系ではエネルギーの方がゆらぎます.
比の形で見ると意味がはっきりします.エネルギーが 𝑘𝐵𝑇 だけ高い微視状態は 1/𝑒 ≈0.37 倍しか現れず,𝑘𝐵𝑇 より十分高い状態はほとんど現れません.つまり 𝑘𝐵𝑇 が,その温度で「手の届くエネルギー」の目安です(室温の 300 K で 𝑘𝐵𝑇 ≈4.1 ×10−21 J ≈0.026 eV).ここで 𝑃𝑖 が1つの微視状態の確率だという点に注意してください.ふつう知りたいのは「エネルギーが 𝐸 くらい」「速さが 𝑣 くらい」という,たくさんの微視状態をまとめた確率で,それはボルツマン因子と状態の数 𝑔(𝐸) の積 𝑃(𝐸) ∝𝑔(𝐸)𝑒−𝐸/𝑘𝐵𝑇 になります.運動エネルギーに同じ因子を当てはめ,速さが 𝑣 になる向きの数(速度空間の球殻 4𝜋𝑣2)を掛けたものが気体の速さの分布で,次の節で作ります.
指数関数の鋭さ
指数関数だということは,応用では「わずかな温度の違いが大きな差を生む」という形で現れます.液体の表面から分子が1個飛び出すには,まわりの分子に引かれている分のエネルギー 𝜀esc が要るので,飛び出せる分子の割合は exp( −𝜀esc/𝑘𝐵𝑇) に比例します.水では蒸発熱から 𝜀esc ≈6.8 ×10−20 J 程度で,室温では 𝜀esc/𝑘𝐵𝑇 ≈16.温度を 10 K 上げるだけで指数が 0.5 ほど変わり,飛び出す割合はおよそ 1.7 倍になります.化学反応の速さが温度に強く依存するのも同じ理由です.
ただし,数えたのは飛び出す側だけです.密閉した容器の飽和蒸気圧は,飛び出す分子と戻って凝縮する分子がつり合う所で決まる相平衡の量で,蒸発の速さという動的な量とは別物です.𝜀esc もモル蒸発熱を1個あたりに直した目安にすぎず,ここで言えるのは温度への効き方が鋭いという点だけです.
ポイント ここまでのまとめ
等温大気の数密度は 𝑛(ℎ) =𝑛(0)exp( −𝑚𝑔ℎ/𝑘𝐵𝑇).スケールハイト 𝐻 =𝑘𝐵𝑇/(𝑚𝑔) ごとに 1/𝑒 倍.成分の分離が見えるのは,拡散平衡が成り立つ所に限る.
熱浴に接した系では微視状態 𝑖 の確率が 𝑃𝑖 =𝑒−𝐸𝑖/𝑘𝐵𝑇/𝑍(正準分布).熱浴が大きく,相互作用が弱く,分子の出入りがないことが条件で,導出には孤立した全体への等重率と 𝑆 =𝑘𝐵lnΩ,(𝜕𝑆/𝜕𝑈)𝑉,𝑁 =1/𝑇 だけを使う.孤立系の等重率とは別の主張である.
𝑘𝐵𝑇 が「その温度で手の届くエネルギー」の目安(室温で 0.026 eV).エネルギーが 𝑘𝐵𝑇 高い状態は 1/𝑒 倍しか現れない.
まとめた確率はボルツマン因子と状態の数の積 𝑔(𝐸)𝑒−𝐸/𝑘𝐵𝑇.これを忘れると分布を取り違える.蒸発や反応の速さが温度に敏感なのも指数関数の鋭さだが,飽和蒸気圧は凝縮とのつり合いで決まる別の量である.
問いの答え:大気は重力と熱運動の綱引きで,𝑘𝐵𝑇/(𝑚𝑔) ≈8 km ごとに密度が 1/𝑒 倍になる分布に落ち着く.分子は絶えず上下しているが,分布の形は変わらない.