問いしるべ
問いから始める物理 熱力学の法則

熱力学の法則

エントロピーとラチェット

著者:柚木芹香

問い

一方向にしか回らない歯車(ラチェット)と,それを押さえる爪を用意し,歯車と同じ軸に羽根車を付けて気体の中に入れます.羽根車は分子にでたらめにたたかれて,右へ左へ小刻みにふるえます.爪があるので歯車は一方にしか回れず,ふるえのうち片方の向きだけが積み重なって,軸が一方向に回り続けそうです.この装置で,一つの温度の気体の熱から仕事を取り出し続けることができるでしょうか.

考えてみる

もしこの装置が動けば,一つの熱源の熱を仕事に変え続けることになり,前の題材のケルビンの表現に反します.しかし歯車も爪も,どこにも怪しいところのない普通の機械です.

鍵になるのは,爪もまた同じ温度の分子にたたかれてふるえていることです.爪がたまたま跳ね上がった瞬間には歯車は逆向きにも回れます.前進と後退のどちらがどれだけ起こりやすいかを比べたいのですが,そのためには「起こりやすさ」と「熱の流れ」を結ぶ量が必要です.それがエントロピーです.

エントロピーは状態量

カルノーサイクルでは QL/QH=TL/TH でした.受け取る熱を正とする約束で書けば,1周で

QHTH+(−QL)TL=0

です.熱を温度で割った量が,可逆なサイクルの1周でちょうど打ち消し合うのです.

これは任意の可逆サイクルで成り立ちます.p-V 図の閉じた道筋は,細い等温線と断熱線の網でたくさんの小さなカルノーサイクルに分けられ,各小サイクルで δQ/T の和が0なので全体でも0です.

p–V図の滑らかな閉曲線の内部を,青い等温線と橙の断熱線の細かい網で区切る.各網目は2本の等温線と2本の断熱線からなる小さなカルノーサイクルで,1つを太線で示す.網目を細かくすると境界も元の道筋に近づき,隣同士で共通の辺を打ち消せる. p–V図の滑らかな閉曲線の内部を,青い等温線と橙の断熱線の細かい網で区切る.各網目は2本の等温線と2本の断熱線からなる小さなカルノーサイクルで,1つを太線で示す.網目を細かくすると境界も元の道筋に近づき,隣同士で共通の辺を打ち消せる.

1周の和が0なら,2点を結ぶ δQ/T の積分は道筋に依りません(行きと帰りで打ち消すからです).つまり,状態だけで決まる量が隠れていたことになります.

定義 エントロピー

系の2つの状態の間を結ぶ可逆な過程に沿って,系が温度 T で熱 δQrev を受け取るとき

dS=δQrevT,ΔS=∫12δQrevT

で定まる量をエントロピー S という.S は状態量で,単位は JK−1 である.ここで T は系自身の温度である(可逆な過程では熱源の温度と等しい).実際の過程が不可逆なときは,同じ始状態と終状態を結ぶ可逆な道筋を1つ選んで計算し,実際に出入りした熱を使ってはならない.

クラウジウスの不等式

不可逆な過程を含むサイクルでは,上の和は0になりません.系が温度 Ti の熱源から熱 δQi を受け取る1周を考え,各熱源と系の間に,基準熱源(温度 T0)との間で働く可逆な補助機関をはさみます.補助機関は基準熱源から T0δQi/Ti を取り出して熱源 i へ δQi を渡します.1周すると系も補助機関も熱源 i も元に戻るので,残るのは「基準熱源から取り出した熱が全部仕事になった」ことだけです.ケルビンの表現より,その総和は正であってはなりません.

系が1周で熱源T_iからδQ_iを受け取る.各可逆補助機関は基準熱源T_0からT_0δQ_i/T_iを受け取り,熱源T_iへδQ_iを返す.矢印はδQ_i>0の向きを示し,負なら逆向きになる.1周後は系・補助機関・各熱源T_iが元に戻る.基準熱源から取り出した総熱が正で全量が外への仕事になる場合を禁止の印で示す.したがってW=T_0Σ_iδQ_i/T_i≤0である. 系が1周で熱源T_iからδQ_iを受け取る.各可逆補助機関は基準熱源T_0からT_0δQ_i/T_iを受け取り,熱源T_iへδQ_iを返す.矢印はδQ_i>0の向きを示し,負なら逆向きになる.1周後は系・補助機関・各熱源T_iが元に戻る.基準熱源から取り出した総熱が正で全量が外への仕事になる場合を禁止の印で示す.したがってW=T_0Σ_iδQ_i/T_i≤0である.

法則 クラウジウスの不等式

物質の出入りのない閉じた系が1周して元の状態に戻るとき,熱を授受する理想熱源の温度 T源 を使って

∫δQT源≤0(1周の積分)

が成り立つ.等号は,すべての過程が可逆なときに限る.状態1から状態2への過程では,可逆な道筋で戻るサイクルを作ることにより

ΔS≥∫12δQ実際T源

となる.差を Sgen≥0(エントロピー生成)と書けば

ΔS=∫12δQ実際T源+Sgen

である.T源 で測ったこの収支では,Sgen は系の内部で生じる分と,熱が流れる界面(系と熱源の温度差)で生じる分の両方を含む.

この1本の式で,温度差を通る熱移動,断熱の不可逆過程,熱漏れがすべて扱えます.断熱(δQ=0)なら ΔS=Sgen≥0 です.

法則 第二法則(エントロピーの形)

熱も仕事も物質もやりとりしない孤立系では ΔS≥0 である(可逆な変化で等号).断熱されていて仕事は受け取れる閉じた系でも δQ=0 だから同じ結論になるが,熱の出入りだけを断った系と,仕事も含めて何も交換しない孤立系は別のものである.

高温 TH の物体から低温 TL の物体へ熱 Q が直接流れると,変化は −Q/TH+Q/TL>0 で増え,逆向きの流れは減少になるので起こりません.減らないのは全体のエントロピーで,一部分は減ってもかまいません.冷蔵庫の庫内は下がりますが,部屋へ捨てる熱による増加の方が大きく,部屋全体では増えます.生き物が体内に秩序を作れるのも同じ理屈です.系の切り方を決めずに「エントロピーは増える」と言っても意味がありません.

エントロピーの統計的な意味

ボルツマンは,この量を微視状態の数と結びつけました.巨視的に同じ状態(同じ U,V,N)を実現する微視状態の数を Ω とします(仕事 W と区別するために Ω を使います).

法則 ボルツマンの関係

S=kBln⁡Ω
番号1〜4で区別する4個の分子を,等体積の左右に分ける.全部が左にある所属配置は1通り.左右に2個ずつある所属配置は左側の番号を選ぶ6通りで,右の箱にはそのうち左が1,2の例を描く.左側の番号の組は12,13,14,23,24,34である. 番号1〜4で区別する4個の分子を,等体積の左右に分ける.全部が左にある所属配置は1通り.左右に2個ずつある所属配置は左側の番号を選ぶ6通りで,右の箱にはそのうち左が1,2の例を描く.左側の番号の組は12,13,14,23,24,34である.

気体が真空中へ広がって体積が2倍になると,分子1個の居場所が2倍になるので Ω は 2N 倍,S は NkBln⁡2=νRln⁡2 だけ増え,熱力学の定義から求めた値と一致します.掛け算で増える場合の数と,足し算で増えるエネルギーの勘定を,対数が結びつけるのです.

分子が自然に散らばるのは,散らばった配置の数が圧倒的に多いからです.全部が片側に戻る確率は 2−N で,N≈1023 ではまず起こりません.ただし,これだけで「時間に向きがある」と言い切れるわけではありません.必要なのは,(i) 出発した状態がエントロピーの低い特別な状態だったこと,(ii) 巨視的な量で状態を区別していること(粗視化),(iii) 分子数が莫大で,圧倒的多数の微視状態が同じ巨視的なふるまいを示すこと(大数の典型性)です.運動方程式は時間を逆にしても成り立つのに巨視的な変化に向きがあるのは,この3つが揃っているからで,少数の分子では逆向きの変化も観測されます.

ラチェットが回らない理由

歯車を1歯ぶん前進させるには,羽根の側で,爪のばねを持ち上げるエネルギー ε を熱運動からかき集める必要があります.一方,爪が熱でたまたま ε だけ持ち上がっている間は,歯車は逆向きに1歯滑れます.前進と後退は,どちらも同じ ε を熱運動から借りる過程です.

羽根と爪が同じ温度 T で,おもりなどの負荷がなく,装置全体が熱平衡にあるなら,前進と後退は互いに逆向きの同じ1つの過程です.熱平衡では,任意の2状態の間の行きと帰りの遷移が同じ頻度で起こります(詳細つり合い).したがって平均すると歯車は回りません.爪は「向きを選ぶ」役には立たず,自分もふるえてしまうのです.借りやすさが e−ε/kBT の形になることは第17章で導きます.

温度T₁の気体中の羽根車を,共通の軸で温度T₂の歯車と爪につなぐ.爪は支点のまわりに動き,ばねで歯へ押しつけられている.軸の巻き取り部に糸でおもりをつるす.T₁がT₂より高いと熱機関としておもりを上げ得るが,同温では爪も熱で揺らぎ,平均して仕事を取り出せない. 温度T₁の気体中の羽根車を,共通の軸で温度T₂の歯車と爪につなぐ.爪は支点のまわりに動き,ばねで歯へ押しつけられている.軸の巻き取り部に糸でおもりをつるす.T₁がT₂より高いと熱機関としておもりを上げ得るが,同温では爪も熱で揺らぎ,平均して仕事を取り出せない.

羽根の側を高温 T1,爪の側を低温 T2 にすれば,温度が高い側ほど大きなエネルギーを借りやすいので前進が起こりやすくなり,歯車は回っておもりを持ち上げます.熱は高温側から低温側へ流れ,装置は2熱源の間の熱機関です.次の節で頻度を勘定すると,軸がちょうど回らなくなる負荷(停止点)では熱の比がカルノーサイクルと同じ関係をみたします.ただしそれは,正味の出力が0で,軸や気体を通した熱漏れもない理想の極限での話です.実際に仕事を取り出すには負荷を停止点より軽くしなければならず,効率はカルノー効率より小さくなります.熱漏れがあればさらに下がります.

ポイント ここまでのまとめ

  • 可逆サイクルでは δQ/T の1周の和が0なので,状態量 S が定まる.系については可逆な経路の熱で dS=δQrev/T,理想熱源については実際の熱で ΔS=Q/T と計算する.

  • クラウジウスの不等式 ∫δQ/T源≤0.過程では ΔS=∫δQ実際/T源+Sgen,Sgen≥0.孤立系・断熱系では ΔS≥0.

  • 統計的には S=kBln⁡Ω.自然な変化は微視状態の数が増える向きに進むが,時間の矢を言うには低エントロピーの初期状態・粗視化・大数の典型性が必要である.

  • 問いの答え:爪も同じ温度でふるえるので,熱平衡の詳細つり合いにより前進と後退が同じ頻度で起こり,一つの熱源からは仕事を取り出せない.羽根と爪に温度差を付ければ熱機関として回り,効率はカルノー効率までである.