問いしるべ
問いから始める物理 力と運動の法則

力と運動の法則

慣性の法則

著者:柚木芹香

問い

氷の張った広い池の上で,パックを手で軽く押し出すことを考えます.手を離れたパックは,しばらく滑って止まります.では,氷がもっとなめらかになり,摩擦がまったく無くなり,空気抵抗も無視できるとしたら,パックはどこまで行くでしょうか.

もうひとつ.私たちは「物を動かし続けるには,力を加え続けなければならない」と感じています.台車は押すのをやめると止まりますし,自転車もこぐのをやめれば遅くなります.この感覚は,物理の目で見ると,どこが違っているのでしょうか.先を読む前に,自分の考えを一文で書いてみてください.

考えてみる

台車を押すのをやめると止まるのは,本当に「力が無くなったから」でしょうか.床の上の台車は,床とのこすれ合いによって絶えず後ろ向きに引き止められています.押すのをやめれば,この引き止める力だけが残って,台車は減速します.もし床をワックスで磨けば,台車は前よりも遠くまで進みます.氷の上ならもっと遠くです.

そこで,こう考えてみます.床がなめらかになるにつれて,止まるまでの距離はどんどん伸びていきます.では,引き止めるものが完全に無くなった極限では,どうなるでしょう.止まる理由が無いのですから,止まりません.同じ速さのまま,まっすぐ進み続けるはずです.これが最初の問いへの答えの方向です.摩擦も空気抵抗も無く,水平方向の合力が0なら,パックはどこまでも同じ速さで進みます.

日常の感覚が「動き続けるには力が要る」と告げるのは,私たちの身の回りには,いつも摩擦や空気の抵抗があるからです.押している力は,運動を「保つ」ために使われているのではなく,運動を「止めようとする力」を打ち消すために使われています.この見方の転換が,力学の出発点です.

アリストテレスの見方とガリレオの思考実験

古代ギリシャのアリストテレスは,荷車などを動かす日常の観察から,次のように考えたと紹介されます.ここでは導入のために単純化した形で示します(実際のアリストテレスは,自然な運動と強制された運動を区別し,媒質の抵抗も論じています).

定義 アリストテレスの見方(単純化したもの)

荷車を動かす場面のように,物体の速度は,それに働く力に比例する.力を加えなければ,物体は止まる.

台車や荷車の観察とよく合っているので,この考えは長い間信じられました.重い物ほど速く落ちるという印象も,この考えと結びついています.

これに疑問を投げかけたのが,17世紀のガリレオです.彼は,実際には(当時の技術では)作れない理想的な状況を頭の中で組み立てることで,法則を見抜きました.次の思考実験です.

[図:斜面の傾きを小さくしていく思考実験]

なめらかな谷の左の斜面の高さ h から球を静かに放す図.右の斜面を急・ゆるい・もっとゆるい・水平の4通りに重ねて描き,傾きがあれば球は同じ高さ h まで上り,傾きがゆるいほどその位置は右へ遠ざかる.水平にすると高さ h に届かず,球は同じ速さで進み続ける.傾きを選ぶと,その斜面での球の動きを再生できる.

なめらかな斜面を谷の形に向かい合わせて置き,左の斜面の高さ h の所から球を静かに放します.球は転がり下り,谷底を通って右の斜面を上り,ほぼ同じ高さ h まで達して止まります.右の斜面の傾きを小さくしていくと,球は同じ高さ h に達するまでに,より長い距離を進まなければなりません.傾きをゼロにして水平にしてしまえば,球は元の高さに達することができず,永遠に進み続けることになります.

この推論には,ふたつの大切な点があります.ひとつは,摩擦を取り除いた極限を考えていること.もうひとつは,「元の高さまで上る」という,実際に確かめられる事実から出発していることです.実験できない極限も,確かめられる事実の延長として考えると,筋の通った結論になります.

慣性の法則

ガリレオの洞察を,ニュートンは力学の第1法則としてまとめました.

法則 ニュートンの第1法則(慣性の法則)

物体に力が働かない(働く力の合力が 0 である)とき,物体は静止し続けるか,等速直線運動を続ける.

式で書けば,合力が F=0 のとき速度 v が一定で,加速度が a=0 ということです.

ここで注意したいのは,「静止」と「等速直線運動」が同じ扱いになっていることです.静止は速度が v=0 という等速直線運動の特別な場合にすぎません.どちらの状態も,それを続けるのに力は要りません.力が必要になるのは,速度を「変える」とき,すなわち加速度を生じさせるときです.

ポイント 力と速度の関係

  • アリストテレス(単純化した見方):荷車などでは,力は速度に比例する.

  • ニュートン:力は速度の変化(加速度)に関係する.

  • 日常の運動で「押し続けて等速」に見えるのは,押す力と抵抗力がつり合い,合力が 0 になっているから.

物体が今の速度を保とうとするこの性質を,慣性といいます.慣性が大きいか小さいかを表す量が質量ですが,その話は,この章の「運動方程式」の節で扱います.

慣性系

慣性の法則は,どんな立場から見ても成り立つわけではありません.急発進する電車の中で,床に置いた滑らかなボールを見てください.電車の外の地面に立つ人にはボールはその場に残っているように見えますが,電車の中の人には,ボールが突然後ろ向きに転がり始めるように見えます.ボールには水平方向の力が働いていないのに,電車の中の人から見ると加速しているのです.

つまり,慣性の法則が成り立つかどうかは,「どの立場(基準系)から見るか」に依存します.そこで,法則が成り立つ基準系に名前を付けます.

定義 慣性系

慣性の法則が成り立つ基準系.すなわち,他の物体から力を受ける理由のない物体が,等速直線運動(または静止)を続けるように見える基準系.

「力を受けていない」ことは,どのように判断するのでしょうか.力は他の物体との相互作用から生じます.周りに触れている物体も,近くに引力や斥力を及ぼすものも見当たらない物体を「力を受けていない物体」と考えるのです.そうした物体が等速直線運動をするように見える基準系が,慣性系です.

慣性系がひとつ見つかれば,それに対して等速直線運動をしている基準系は,みな慣性系になります.実際,慣性系に対して速度 V(一定)で動く基準系から見た物体の速度は,v′=v−V です.V が一定なら,v が一定であることと v′ が一定であることは同じです.加速度も,a′=a となって変わりません.だから,等速で走る静かな電車の中では,ボールを落としたりジャンプしたりしても,止まっている部屋の中と同じように運動します.

逆に,慣性系に対して加速している基準系は慣性系ではありません.先ほどの急発進する電車の中がそうです.

左右に並べた2つの側面図.左は電車の中の人から見たボールの軌跡で,ボールは真上に上がり,同じ手元に真下へ戻る直線.右は地上の人から見た同じボールの軌跡で,電車の速さVで前へ進みながら上がり下りするので放物線になる.見る立場が違っても,等速で走る電車の中は慣性系である. 左右に並べた2つの側面図.左は電車の中の人から見たボールの軌跡で,ボールは真上に上がり,同じ手元に真下へ戻る直線.右は地上の人から見た同じボールの軌跡で,電車の速さVで前へ進みながら上がり下りするので放物線になる.見る立場が違っても,等速で走る電車の中は慣性系である.

では,私たちが立っている地面は慣性系でしょうか.地球は自転し,太陽のまわりを公転していますから,厳密には加速度運動をしています.ただし,その加速度は小さく,大きさを見積もると,自転による赤道での加速度は 0.034ms−2 ほど,公転による加速度は 0.006ms−2 ほどです.重力加速度 g=9.8ms−2 と比べれば,千分の数個にすぎません.そのため,日常の実験や入試に出てくる運動では,地面を慣性系とみなして構いません.この本でも,特に断らない限り,地面を慣性系として扱います.

ポイント ここまでのまとめ

  • 問いの答え:摩擦も空気抵抗も無く水平方向の合力が0なら,パックは同じ速さでどこまでもまっすぐ進む.動き続けるために力は要らない.

  • 力が必要になるのは,速度を「変える」とき,すなわち加速度を生じさせるときである.

  • 第1法則:合力が 0 なら,物体は静止し続けるか,等速直線運動を続ける.静止は等速直線運動の特別な場合にすぎない.

  • 物体が今の速度を保とうとする性質が慣性である.質量との関係は「運動方程式」の節で扱う.

  • 慣性の法則が成り立つ基準系が慣性系である.慣性系に対して等速直線運動をする基準系も慣性系で,加速している基準系は慣性系ではない.この本では地面を慣性系とみなす.