問いしるべ
問いから始める物理 非慣性系

非慣性系

慣性系と非慣性系

著者:柚木芹香

問い

駅を発車する電車の中で,つり革につかまらずに立っていると,つり革が進行方向とは逆の後ろ向きに傾きます.加速が一定になると,つり革は傾いたまま,電車に対して止まったように見えます.

電車の中の人から見れば,止まっているつり革に働く力はつり合っているはずです.ところが,つり革に働く実際の力は,重力と,糸が引く張力の2つだけです.つり革が斜めに傾いたままでは,この2つはつり合いません.では,つり革を後ろへ傾けているのは,何でしょうか.先を読む前に,自分の考えを一文で書いてみてください.

左は地上から見た傾いたつり革と右向き加速度A.右は車内から見た同じつり革で,重力と張力だけでは合力が0にならない. 左は地上から見た傾いたつり革と右向き加速度A.右は車内から見た同じつり革で,重力と張力だけでは合力が0にならない.

考えてみる

まず,地上に立つ人の立場で考えます.地面は慣性系とみなせますから(第4章),運動方程式 ma=F をそのまま使えます.つり革は電車と一緒に,進行方向へ加速度 A で加速しています.質量を m とすれば,合力は進行方向を向き,大きさは mA でなければなりません.

重力は鉛直下向きに mg です.糸が後ろへ傾いていると,張力 T は上向きで,しかも前向きの成分をもちます.この水平成分が合力になり,鉛直成分が重力とつり合えば,つり革は電車と一緒に加速できます.糸が鉛直となす角を θ とすると

Tsin⁡θ=mA,Tcos⁡θ=mg

です.辺々を割って tan⁡θ=A/g を得ます.加速度が大きいほど,つり革は大きく傾きます.

この見方では,つり革を後ろへ引く力は,どこにも必要ありません.つり革は,前へ加速するために,傾いて水平方向の力を作っているのです.

次に,電車の中に立つ人の立場で考えます.この人から見て,つり革は止まっています.つまり加速度は 0 で,運動方程式 ma=F に従うなら,合力も 0 でなければなりません.しかし,実際に働く力は重力と張力だけで,その合力は水平前向きに mA だけ残ります.運動方程式が,そのままでは成り立ちません.

加速する電車の中は,第4章で見た,慣性の法則が成り立たない基準系です.

慣性系と非慣性系

定義 慣性系と非慣性系

慣性系:慣性の法則(したがって運動方程式 ma=F)が成り立つ基準系.
非慣性系:慣性系に対して加速または回転している基準系.ここでは,運動方程式がそのままでは成り立たない.

この節では,座標軸の向きを変えずに動く(並進する)基準系だけを扱います.回転する基準系は,あとの遠心力とコリオリ力の節で扱います.慣性系 S(地上)に対して,加速度 A で並進する基準系 S′(電車)を考えます.ある物体の加速度は,S で見れば a,S′ で見れば a′ で,第3章のガリレイ変換から

a′=a−A

の関係にありました.A=0,つまり S′ が等速で動くなら a′=a で,S′ も慣性系です.A≠0 のとき,並進する系は非慣性系です.

つり革の加速度を比較する.図中の記号と条件は「地上 S」「θ」「A」「a=A」「電車 S'」「a'=0」である. つり革の加速度を比較する.図中の記号と条件は「地上 S」「θ」「A」「a=A」「電車 S'」「a'=0」である.

つり革では,a=A,a′=0 です.

見かけの力という考え方

S では ma=F が成り立ちます.これに a=a′+A を代入して整理すると

ma′=F−mA

となります.右辺は,実際に働く力 F に,−mA という項をつけ足した形です.この項を「力」とみなして足せば,非慣性系 S′ の中でも,ma′=(力の和) という運動方程式の形が使えます.

定義 見かけの力(慣性力)

非慣性系で運動方程式の形を保つために,実際の力につけ足す力.並進する系の加速度が A のとき,質量 m の物体に対する並進による見かけの力は −mA.回転する系の見かけの力は,あとの節で扱う.

見かけの力には,次の特徴があります.

  • 向きは,系の加速度 A と逆向きである.

  • 大きさは,物体の質量に比例する.

  • 他の物体から受ける力ではない.そのため,作用・反作用の反作用にあたる力が,どこにも存在しない.

つり革の例で,2つの立場を並べて比べてみます.

地上(慣性系)

電車の中(非慣性系)

つり革の加速度

A

0

働く力

重力 mg,張力 T

重力 mg,張力 T,見かけの力 −mA

運動方程式

mA=mg+T

0=mg+T−mA

下の行は,どちらも同じ式です.左辺の mA を右辺へ移せば,上と下が一致します.電車の中の人にとって,つり革は,重力と張力と後ろ向きの見かけの力 mA の3つがつり合って静止しているのです.

なぜ,わざわざ非慣性系で考えるのか

地面という慣性系だけで考えれば,見かけの力は要らないはずです.それでも非慣性系を使う理由は,主に3つあります.

  1. 私たちが立っている地球が,厳密には非慣性系だから.地球は自転しているため,地面に固定した基準系は加速しています.普通の実験では無視できますが,台風や海流,長い距離を飛ぶ弾道を調べるときは,この効果が現れます.

  2. 乗り物の中の観測は,その乗り物を基準にするのが自然だから.電車の中の人にとっての「落ちる」「傾く」「止まっている」は,電車に対する運動です.

  3. 解きやすくなることがあるから.系の中で静止している物体は a′=0 なので,つり合いの式だけで済みます.上のつり革は,その例です.

ただし,便利さの代わりに,守るべき約束があります.

ポイント 非慣性系で考えるときの約束

  1. 最初に,どの基準系で考えるかを決める.

  2. 慣性系で考えるなら,実際に働く力だけを数える.見かけの力は入れない.

  3. 並進する非慣性系で考えるなら,実際の力に,並進による見かけの力 −mA を加える.

  4. 2つの立場を途中で混ぜない.慣性系の加速度を使いながら見かけの力も足すと,同じ効果を二重に数えてしまう.

ポイント ここまでのまとめ

  • 問いの答え:つり革を後ろへ傾けている力は,実在しない.電車の中の人から見たときだけ,後ろ向きの見かけの力(慣性力)−mA が重力と張力に加わって,3つの力がつり合う.

  • 地上の人から見れば,つり革は前へ加速するために傾いている.同じ現象が,どちらの立場でも説明できる.

  • 慣性系に対して向きを変えずに加速度 A で動く(並進する)基準系は非慣性系で,運動方程式がそのままでは成り立たない.a′=a−A から,ma′=F−mA となる.

  • 並進による見かけの力 −mA を足すと,並進する非慣性系でも運動方程式の形が使える.向きは A と逆で,大きさは質量に比例し,反作用の相手はない.

  • 非慣性系で考える理由は,地球自体が非慣性系であること,乗り物の中の観測が自然であること,静止した物体がつり合いで解けることの3つである.

  • どちらの系で考えるかを先に決め,途中で混ぜない.