問い
壁に2つの小さな穴をあけ,その向こうにスクリーンを置きます.壁に向けて,(a) 機関銃の弾丸をでたらめな向きに撃ち込む,(b) 水面に波を立てて送り込む,(c) 電子銃から電子を1個ずつ送り込む,の3つの実験をします.スクリーンのどこにどれだけ当たるかの分布は,3つの場合でどう違うでしょうか.そして,電子がどちらの穴を通ったかを確かめながら実験すると,何が変わるでしょうか.
この章では,古典的な描像から量子力学を導くことはしません.粒が波のようにふるまう理由を力学で説明しようとしても,うまくいかないことが分かっているからです.代わりに,「確率は複素数の振幅の絶対値の2乗で,区別できない道すじの振幅は足す」という規則を天下りに置き,そこから第29章の光子・物質波・飛び飛びの準位を1つの枠組みにまとめます.第29章で実験として見た量子を,振幅の言葉で組み立て直すのがこの章の仕事です.これは,第13章で運動方程式を法則として受け入れずに,状態と停留作用と対称性から力学を組み立て直したのと対になるやり方です.第13章とのつながりは,振幅の位相とローレンツ変換,停留作用と古典極限として,どちらも第5題材で回収します.この章は,振幅の規則(第1・2題材),同じ粒子(第3題材),スピン(第4題材),時間変化と2状態系(第5・6題材)の順に進みます.第3題材の「黒体放射のスペクトル」と,第5題材の「動いている粒子の振幅」(相対論を使う所)は,飛ばしても後が読めます.
ポイント 第30章で使う記号
記号 | 意味 |
|---|
𝜙,⟨𝑥|𝑠⟩ | 確率振幅(複素数).⟨𝑥|𝑠⟩ は「𝑠 から出て 𝑥 に着く」振幅で,第2題材から使う |
𝑃 =|𝜙|2 | 確率 |
𝛿 | 2つの振幅の位相差(第6題材では電場によるエネルギーのずれにも使う) |
|𝜓⟩,|+⟩,|−⟩ | 状態,スピンの基底(第4題材から) |
𝐶𝑖 =⟨𝑖|𝜓⟩ | 基底 |𝑖⟩ に見つかる振幅(第5・6題材) |
𝐻𝑖𝑗,𝐸 | ハミルトニアン行列,エネルギー(第5・6題材) |
𝜃,𝜙 | 装置の 𝑦 軸,𝑧 軸のまわりの回転角(第4題材.𝜙 は振幅と文脈で区別する) |
𝑚0 | スピン1/2の粒子の磁気モーメントの大きさ(第5・6題材.質量 𝑚 と区別する) |
ℎ,ℏ =ℎ/2𝜋 | プランク定数 |
Δ𝑥,Δ𝑝 | 位置と運動量の標準偏差 |
虚数単位は 𝑖 です.状態の番号にも 𝑖 を使う所があるので,添字の 𝑖 と虚数単位は文脈で区別してください.
考えてみる
電子の実験は,第29章の題材「物質波と確率の振幅」で見た2つのすき間の実験そのものです.そこで見たとおり,電子は1個ずつスクリーンの1点に粒として着くのに,たくさん集めた分布は縞になり,両方開けると片方だけのときよりも電子が来なくなる場所さえあります.「電子はどちらかの穴を通る」という考えのどこかを捨てなければなりません.この題材では,同じ実験を弾丸と水の波と並べて見直し,そこから量子力学の規則を取り出します.
3つの実験
弾丸.弾丸は1個ずつ,かたまりとして着きます.穴1だけを開けたときにスクリーンの位置 𝑥 の近くに着く確率を 𝑃1(𝑥),穴2だけのときを 𝑃2(𝑥) とすると,両方を開けたときは
𝑃12=𝑃1+𝑃2
です.どの弾丸もどちらか一方の穴を通るので,確率は足し算になります.縞はできません.
水の波.波は連続的に届き,強さ(エネルギーの流れ)はどんな値もとります.穴1と穴2から出た波の振幅を複素数の ℎ1,ℎ2 で表すと(第25章,第27章),強さは振幅の2乗に比例し,両方を開けたときは振幅が足し算になるので
𝐼12=|ℎ1+ℎ2|2=𝐼1+𝐼2+2√𝐼1𝐼2cos𝛿
です.𝛿 は2つの波の位相差で,最後の項が干渉です.強め合う所と弱め合う所が交互に並びます.
電子.検出器は1個ずつ「カチッ」と鳴り,半分の電子が来ることはありません.その点では弾丸と同じです.ところが着く確率の分布は,第29章で見たとおり水の波と同じ式になります.
[図:弾丸,水の波,電子の2つの穴の実験]初期状態は電子400個で,スクリーンの各点への検出が縞を作り始めている.右は検出確率の分布.実験を切り替えると,弾丸では確率の和,水の波では振幅の和の絶対値の2乗を比較できる.電子数を変えると,同じ検出列に点が1個ずつ積もる様子を確かめられる.再生は2400個で停止する.
初期状態は電子400個で,スクリーンの各点への検出が縞を作り始めている.右は検出確率の分布.実験を切り替えると,弾丸では確率の和,水の波では振幅の和の絶対値の2乗を比較できる.電子数を変えると,同じ検出列に点が1個ずつ積もる様子を確かめられる.再生は2400個で停止する.
量子力学の基本の規則
第29章では,この実験から「振幅と確率の足し方」を読み取りました.電子の実験を説明する考え方はこれ1つしか見つかっていないので,この章ではそれを量子力学の出発点の規則として受け入れます.
法則 確率振幅の規則
粒子が出発点 𝑠 から出て検出器 𝑥 に着く確率は,確率振幅とよぶ複素数 𝜙 の絶対値の2乗 𝑃 =|𝜙|2 である.
粒子が 𝑥 に着く道すじが2通り以上あり,どの道すじを通ったかが原理的に区別できないとき,振幅を足す.𝜙 =𝜙1 +𝜙2,𝑃 =|𝜙1+𝜙2|2.
どの道すじを通ったかが(装置に残る記録などで)区別できるとき,道すじごとの確率を足す.𝑃 =|𝜙1|2 +|𝜙2|2.
規則2から,両方の穴を開けたときの電子の確率は
𝑃12=|𝜙1+𝜙2|2=𝑃1+𝑃2+2√𝑃1𝑃2cos𝛿
で,水の波と同じ形になります.𝛿 は 𝜙1 と 𝜙2 の位相差で,第29章と同じく,穴の間隔 𝑑 とスクリーン上の位置 𝑥 がスクリーンまでの距離 𝐿 より十分小さいとき,ド・ブロイ波長 𝜆 =ℎ/𝑝 を使って 𝛿 =2𝜋𝑑𝑥/(𝜆𝐿),縞の間隔は 𝜆𝐿/𝑑 です.
この規則は,電子が「なぜ」そうふるまうかを説明していません.確率を予言する手順を言っているだけです.1個の電子がどこに着くかは予言できず,予言できるのは確率だけです.物理学はこれ以上の説明を見つけておらず,この規則と矛盾する実験も見つかっていません.
どちらの穴を通ったかを見る
第29章で見たように,穴のすぐ後ろに光源を置いて電子がどちらの穴を通ったかを確かめると,縞は消えます.見えた電子は必ずどちらか一方の穴で光り,穴1で光った電子だけを集めると分布は 𝑃1,穴2では 𝑃2 で,全部を合わせると 𝑃1 +𝑃2 です.これが規則3です.
大事なのは,縞を消すのは人が結果を読むことではなく,道すじが区別できる記録が世界のどこかに残ることです.散乱された光子が装置の外に飛び去って誰も検出しなくても,原理的に区別できるなら確率を足します.一部の電子にだけ記録が残る場合は,記録の残る組(確率を足す)と残らない組(振幅を足す)の確率をそれぞれの割合で足すので,縞は消えきらずに薄くなります.
では光を弱くしたらどうでしょう.光の強さを下げても光子1個の大きさは変わらず,光子の数が減るだけです.光子に出会わずに通り抜けた電子には記録が残らず,それらの電子は縞を作ります.光の波長を長くすると,光子1個の運動量 ℎ/𝜆 が小さくなり電子をあまり乱さなくなりますが,波長が穴の間隔 𝑑 より長くなると,光った位置がぼやけて,どちらの穴か区別できなくなります.ちょうど区別できなくなる所で縞が戻ってきます.このつり合いは例題で計算します.
不確定性原理
どちらの穴を通ったかを決めずに縞を見る方法はありません.第29章では,1つのすき間の回折から Δ𝑥 Δ𝑝𝑥 ∼ℎ と見積もりました.ハイゼンベルクはこれを,位置と運動量を同時にいくらでも正確には決められない,という形にまとめました.
法則 不確定性原理
同じ方法で用意した多数の粒子について,位置 𝑥 の標準偏差を Δ𝑥,運動量の同じ向きの成分 𝑝𝑥 の標準偏差を Δ𝑝𝑥 とすると
Δ𝑥Δ𝑝𝑥≥ℏ2
が成り立つ.
標準偏差は,同じ状態を何度も用意して測ったときのばらつきです(第14章).見積もりでは係数を気にせず Δ𝑥 Δ𝑝 ∼ℏ と使うこともあります.もし穴の位置で電子の横の運動量を,どちらの穴を通ったか分かるほど精密に測れたら,縞を見ながら道すじも分かってしまいます.不確定性原理は,そうした測定ができないことを保証して,規則1〜3が矛盾なく成り立つようにしているのです.等号に近い状態はつくれるので,これは測定器の腕の悪さではなく,粒子の状態そのものの性質です.
原子はなぜ潰れないか
古典的には,原子核のまわりを回る電子は光を出してエネルギーを失い,原子核に落ちてしまうはずでした(第26章).不確定性原理はこの問題に答えます.電子を半径 𝑎 ほどの範囲に閉じこめると,運動量は ℏ/𝑎 ほどばらつき,運動エネルギーは ℏ2/(2𝑚𝑎2) ほどになります.𝑎 を小さくすると位置エネルギー −𝑒2/(4𝜋𝜀0𝑎) は下がりますが,運動エネルギーがそれより速く上がるので,合計が最小になる大きさで原子は落ち着きます.計算すると 𝑎 は 10−10 m ほどになり,原子の実際の大きさと合います(例題3).原子の大きさも,物質が押しても縮まない硬さも,この量子の効果から来ています.
問いに戻る
弾丸は確率が足し算で縞はできず,水の波は振幅が足し算で縞ができます.電子は1個ずつ粒として着きますが,どの穴を通ったか区別できない限り振幅が足し算になり,分布は水の波と同じ縞になります.どちらの穴を通ったかを調べると記録が残り,確率が足し算になって縞は消えます.どんなに工夫しても,穴を区別できる観測は電子の運動量を縞の間隔をぼかすほど乱し,それが不確定性原理です.
ポイント ここまでのまとめ
確率は複素数の確率振幅の絶対値の2乗 𝑃 =|𝜙|2.
道すじが原理的に区別できなければ振幅を足し,区別できれば確率を足す.縞を消すのは,読まれなくても残る道すじの記録である.
2つの穴では 𝑃12 =𝑃1 +𝑃2 +2√𝑃1𝑃2cos𝛿.𝑑 と 𝑥 が 𝐿 より十分小さいとき縞の間隔は 𝜆𝐿/𝑑.
不確定性原理 Δ𝑥 Δ𝑝𝑥 ≥ℏ/2 は,道すじを見ながら縞を見ることを禁じ,原子の大きさも決める.