問い
静かなコップの水にインクを1滴落とすと,インクはゆっくり広がり,やがて全体がうすく色づきます.分子は秒速数百メートルで飛び回っているのに,インクが 1 cm 広がるのに何時間もかかるのはなぜでしょうか.どれくらいの時間がかかるかを,分子の運動から予言できるでしょうか.
考えてみる
分子の速さだけを見れば,インクの分子は一瞬でコップの端に着くはずです.しかし実際には,分子はすぐ周りの分子とぶつかって向きを変えます.まっすぐ進めるのは,次の衝突までのごく短い距離だけです.
これは前の節のランダムウォークそのものです.広がる距離は時間に比例せず,時間の平方根にしか比例しません.そこで,1歩の長さと1歩の時間を,気体の分子運動から見積もってみます.
衝突までの距離:平均自由行程
半径 𝑟 の分子が,数密度 𝑛(単位体積あたりの分子の数で,物質量ではありません)の気体の中を進むとします.いま,相手の分子は止まっていて自分だけが動くという模型で数えます.中心どうしが 2𝑟 以内に近づくとぶつかるので,分子は断面積 𝜎 =𝜋(2𝑟)2 の円柱を掃きながら進みます.長さ 𝜆 の円柱の中に相手の分子がちょうど平均1個入るとき,そこまでに1回ぶつかる勘定になるので,𝑛𝜎𝜆 =1 です.
定義 衝突断面積と平均自由行程
衝突が起こるために相手の中心が入っていなければならない面積 𝜎 を衝突断面積という.衝突から次の衝突までに進む平均の距離を平均自由行程 𝜆 といい,標的が静止しているとみなす上の模型では
𝜆∼1𝑛𝜎
である.衝突までの平均の時間は 𝜏 =𝜆/¯𝑣(¯𝑣 は平均の速さ)である.
[図:衝突断面積と平均自由行程]半径rの分子が進むとき,衝突相手の中心が入る範囲は半径2r,断面積σ=π(2r)²の円柱になる.中心が円柱内にある相手と衝突し,外側の相手とは衝突しない.円柱の長さλは平均自由行程であり,下段の軌跡は衝突のたびに進む向きが変わることを示す.
相手も同じように飛んでいるので,出会う頻度を決めるのは本当は相対速度です.同じ種類の硬い球が同じ分布で熱運動する気体について係数まで計算すると 𝜆 =1/(√2 𝑛𝜎) となり,静止標的の値の 1/√2 になります.桁の見積もりには 𝜆 ∼1/(𝑛𝜎) を使い,係数まで必要なときは √2 を入れます.以下の数値は見積もりの式のほうです.
1気圧,室温の空気では 𝑛 ≈2.5 ×1025 m−3,𝜎 ≈4 ×10−19 m2 なので 𝜆 ≈1 ×10−7 m です.分子の直径のおよそ300倍,分子間の平均の間隔のおよそ30倍にあたります.¯𝑣 ≈4.7 ×102 ms−1 とすると 𝜏 ≈2 ×10−10 s で,1秒間に50億回ほどぶつかっている計算です.
拡散係数とフィックの法則
1歩が 𝜆,1歩の時間が 𝜏 のランダムウォークなので,広がりは ⟨𝑥2⟩ ∼(𝜆2/𝜏)𝑡 =𝜆¯𝑣 𝑡 程度です.流れと勾配の関係を見るには,面を左右に通り抜ける分子を数えます.面から左右に 𝜆 離れた所の数密度を 𝑐−,𝑐+ とすると,面を正の向きに通り抜ける正味の個数(流束)は (𝑐− −𝑐+)¯𝑣 程度で,𝑐+ −𝑐− ≈2𝜆 𝜕𝑐/𝜕𝑥 ですから,流束は濃度の勾配に比例します.向きの平均をていねいに行うと,次の形になります.
法則 フィックの法則
注目する分子の数密度(濃度)を 𝑐 とすると,単位時間に単位面積を通る正味の個数(流束)は
𝐽=−𝐷𝜕𝑐𝜕𝑥
である.𝐷 を拡散係数という.気体では
𝐷≈13𝜆¯𝑣
程度で,はじめ1点にあった分子の1方向の広がりは ⟨𝑥2⟩ =2𝐷𝑡 にしたがう.この 13 は向きの平均だけから出る数ではない(次の節).
[図:広がる濃度分布と流束の向き]同じ粒子数の濃度分布を時刻t₁<t₂<t₃で重ねた.時間とともに山は低く広くなるが,曲線の下の面積は変わらない.山の左では濃度勾配が正で流束Jは左向き,右では勾配が負でJは右向きとなり,J=−D∂c/∂xに従って粒子が山から外へ流れる.
空気では 𝐷 ≈13 ×1 ×10−7 ×4.7 ×102 ≈2 ×10−5 m2s−1 です.水の中のインクの分子では 𝐷 ≈1 ×10−9 m2s−1 ほどですが,こちらは水中での実測値で,希薄な気体の見積もりから出した値ではありません.液体では分子がぎっしり詰まっていて,自由行程という考え方そのものが使えないからです.水中で 1 cm 広がる時間は 𝑡 ≈𝑥2/(2𝐷) ≈5 ×104 s,半日ほどになります.これが問いの答えです.部屋の向こうのにおいが数秒で届くのは,拡散ではなく空気の流れ(対流)が運んでいるからです.
広がりと移動度は同じものの裏表
拡散係数は,前の節の移動度 𝜇𝑚 と結びついています.粒子が出入りしない閉じた容器の中に,注目する粒子がまれにしか混ざっていない(互いに影響しない)とし,位置エネルギー 𝑈 をもつ保存力 𝐹 = −d𝑈/d𝑥 を加えます.温度はどこも同じ 𝑇 で,流れは力と勾配に比例する(線形応答の)範囲にあるとします.十分に時間がたつと分布が動かなくなり,しかも閉じているので流束が0になります.すると力によるドリフトの流れ 𝑐𝜇𝑚𝐹 と拡散の流れ −𝐷 𝜕𝑐/𝜕𝑥 が打ち消し合って
𝐷𝜕𝑐𝜕𝑥=𝑐𝜇𝑚𝐹
です.いっぽうこれは熱平衡の状態でもあるので,第17章のボルツマン因子から 𝑐 =𝑐0𝑒−𝑈/(𝑘𝐵𝑇) であり,微分すると 𝜕𝑐/𝜕𝑥 =𝑐𝐹/(𝑘𝐵𝑇) です.2つを見比べると,次が得られます.
法則 アインシュタインの関係(拡散と移動度)
𝐷=𝜇𝑚𝑘𝐵𝑇
力に引かれてどれだけ流れやすいか(𝜇𝑚)と,ひとりでにどれだけ広がるか(𝐷)は,温度を通して同じ量で決まっている.球形の粒では 𝜇𝑚 =1/(6𝜋𝜂𝑎) なので 𝐷 =𝑘𝐵𝑇/(6𝜋𝜂𝑎) であり,ブラウン運動の ⟨𝑥2⟩ =2𝐷𝑡 と同じ式になる.
この導出では,気体か液体か,粒が大きいか小さいかを一切使っていません.熱平衡でつり合うという条件だけから出るので,𝐷 =𝜇𝑚𝑘𝐵𝑇 は非常に広く成り立ちます.ブラウン運動の節の ⟨𝑥2⟩ =2𝜇𝑚𝑘𝐵𝑇𝑡 は,これに ⟨𝑥2⟩ =2𝐷𝑡 を合わせたものに他なりません.
ここで流束が0になったのは,閉じた容器の熱平衡という条件のおかげです.定常でありさえすれば流束が0になるわけではありません.次の節の膜の例題のように,両側の濃度を外から保てば,時間が変わらないまま粒子が流れ続ける定常状態になります.
ポイント ここまでのまとめ
衝突断面積 𝜎 と数密度 𝑛 から,平均自由行程は 𝜆 ∼1/(𝑛𝜎)(静止標的の模型.同種の硬球では 1/(√2 𝑛𝜎)).空気ではおよそ 0.1 𝜇m,衝突の間隔はおよそ 2 ×10−10 s である.
フィックの法則 𝐽 = −𝐷 𝜕𝑐/𝜕𝑥.気体では 𝐷 ≈13𝜆¯𝑣.
広がりは ⟨𝑥2⟩ =2𝐷𝑡 で,時間の平方根にしか比例しない.距離が10倍になれば時間は100倍要る.
閉じた容器の熱平衡でドリフトと拡散がつり合うことから,アインシュタインの関係 𝐷 =𝜇𝑚𝑘𝐵𝑇 が出る.拡散とブラウン運動と移動度が1本に結ばれる.
問いの答え:インクの分子は周りの分子と絶えずぶつかってランダムウォークするので,広がる距離は √2𝐷𝑡 にとどまり,水中の 1 cm には半日ほどかかる.