問い
水平な台車の上に,傾き 30∘ のなめらかな斜面が固定してあります.斜面は,台車の進む向き(右)へ向かって下がっています.この斜面の途中に物体をそっと置き,台車を右向きに一定の加速度 𝐴 =8.0 ms−2 で動かし始めます.
台車が止まっているなら,物体は斜面を下ります.台車が加速しているとき,物体は台車に対して,下る向き(右下)と上る向き(左上)のどちらへ動き出すでしょうか.
[図:加速する台車の斜面]加速する台車の斜面.図中の記号と条件は「m」「30°」「台車」「A」である.
考えてみる
素朴には,斜面が右下がりなのだから,物体は右下へ滑るはずだと思えます.台車が止まっていればその通りで,斜面に沿った加速度は 𝑔sin30∘ =4.9 ms−2 です.台車が動いても斜面の傾きは変わらないのだから,同じではないか,と考えたくなります.
地上から調べると,物体は台車の加速度と,台車に対する斜面に沿った加速度の合成で動くので,式が複雑になります.欲しいのは台車に対する動きだけですから,台車に乗った人の立場で,「慣性系と非慣性系」の節の考え方を使います.その導き方を少し丁寧に見ておきます.
座標を台車へ移す
慣性系 𝑆(地上)と軸の向きを同じに保ったまま動く,台車に固定した座標系 𝑆′ を考えます.向きを変えずに平行移動する系を並進する系といいます.𝑆′ の原点は,𝑆 から見て位置 𝑹(𝑡) にあるとします.物体の位置は,𝑆 では 𝒓,𝑆′ では 𝒓′ です.
定理 並進する系との座標変換
𝒓=𝒓′+𝑹(𝑡)
両辺を時間で微分すると 𝒗 =𝒗′ +d𝑹d𝑡.もう一度微分して,系の加速度を 𝑨 =d2𝑹d𝑡2 とおけば
𝒂=𝒂′+𝑨
である.
[図:並進する原点と位置ベクトル]並進する原点と位置ベクトル.図中の記号と条件は「O」「O'」「物体」「R」「r'」「r」「r=R+r'」である.
𝑨 が時間とともに変わっても,各瞬間の値を使えば同じ式が成り立ちます.
物体の質量を 𝑚,実際に働く力の合力を 𝑭 とします.𝑆 は慣性系ですから 𝑚𝒂 =𝑭 です.これに 𝒂 =𝒂′ +𝑨 を代入すると
𝑚𝒂′=𝑭−𝑚𝑨
を得ます.𝑆′ で見ても運動方程式の形が成り立つように,右辺に現れた −𝑚𝑨 を力とみなします.
法則 並進慣性力
加速度 𝑨 で並進する系 𝑆′ では,質量 𝑚 の物体に,実際の力 𝑭 のほかに
−𝑚𝑨
という力が働くものとして,運動方程式 𝑚𝒂′ =𝑭 −𝑚𝑨 が使える.この力を並進慣性力という.
並進慣性力は,場所によらず一様で,向きは 𝑨 と逆,大きさは質量に比例し,反作用の相手はありません.
有効重力
並進慣性力の特徴は,質量に比例することです.重力 𝑚𝒈 も質量に比例します.そこで,重力と並進慣性力をまとめて書いてみます.重力以外の力を 𝑭他 とすると
𝑚𝒂′=𝑚𝒈+𝑭他−𝑚𝑨=𝑚(𝒈−𝑨)+𝑭他
です.そこで
とおきます.𝒈′ を有効重力(見かけの重力加速度)といいます.重力加速度が 𝒈 から 𝒈′ に変わっただけで,あとはふだんの問題と同じに解けます.「下」は 𝒈′ の向きに,「水平」は 𝒈′ に垂直な向きになります.
たとえば右向きに加速する電車では,𝒈 =(0, −𝑔),𝑨 =(𝐴,0) なので
𝒈′=(−𝐴,−𝑔),|𝒈′|=√𝑔2+𝐴2
です.𝒈′ は鉛直から後ろへ tan𝜃 =𝐴/𝑔 の角だけ傾きます.「慣性系と非慣性系」の節のつり革は,この向きにぶら下がっていました.
[図:有効重力の合成]有効重力の合成.図中の記号と条件は「g」「−A」「g'」「有効水平面」「φ」である.
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𝒈 =(0, −9.8) ms−2,𝑨 =(8.0,0) ms−2 だから
𝒈′=(−8.0,−9.8)ms−2,|𝒈′|=√8.02+9.82≈12.6ms−2
です.𝒈′ は鉛直から左へ 𝜑 ≈39∘(tan𝜑 =8.0/9.8)傾いています.台車の上の人にとっての「水平面」は,𝒈′ に垂直な,右下がり 39∘ の面です.
斜面は右下がり 30∘ で,この「水平面」より 9∘ ほど緩やかです.つまり斜面は,「右へ向かって上る 9∘ の坂」にあたります.物体は有効重力の低い方,すなわち左へ(斜面を上る向きへ)動き出します.斜面に沿った加速度の大きさは |𝒈′|sin9∘ ≈2.0 ms−2 です.
𝐴 =0 では斜面を下り,𝐴 を増やすと,ある値(この斜面では 𝑔tan30∘ ≈5.7 ms−2)を境に上りに変わります.台車が前へ加速するので,物体は後ろ(高い側)へ置いていかれるのです.
自由落下では重力が消える
有効重力の式 𝒈′ =𝒈 −𝑨 で,系の加速度が重力加速度に等しい,つまり 𝑨 =𝒈 の場合を考えます.
𝒈′=𝒈−𝒈=0
です.重力と並進慣性力が打ち消し合うので,この系の中では,重力の強さと向きが場所によらないとみなせる範囲で,重力が無いのと同じように物体が運動します.自由落下するエレベーターの中で手を離した物体が浮くのは,このためです.この状態を無重量状態といいます.
国際宇宙ステーションの飛行士が浮いて見えるのも,宇宙に重力が無いからではありません.高度約 400 km でも重力は地表の約9割あり,ステーションは地球のまわりを落ち続けているので,その中が自由落下する系になるのです.
逆に,重力の無い宇宙空間でロケットが上向きに加速度 𝑔 で加速すれば,中では床に向かって 𝑔 の見かけの重力が現れ,重力の場所による違いを無視できる小さな部屋の中の実験では,地上の部屋と区別がつきません.これが,アインシュタインが一般相対性理論の出発点とした等価原理の入口です.重力も慣性力も質量に比例するからこそ,十分に小さな領域では2つを区別できないのです.広い領域では,地球の重力の強さと向きが場所で変わる(潮汐)ので,一様な並進慣性力とは区別できます.
ポイント ここまでのまとめ
問いの答え:物体は斜面を上る向きに動き出し,加速度は約 2.0 ms−2.台車の上の人から見れば,有効重力が左下へ傾き,斜面は右へ上る 9∘ の坂にあたる.
並進する系では,𝒓 =𝒓′ +𝑹(𝑡) の2階微分から 𝑚𝒂′ =𝑭 −𝑚𝑨 となる.並進慣性力 −𝑚𝑨 は,向きが 𝑨 と逆で,大きさが質量に比例し,反作用は無い.
重力と並進慣性力はどちらも質量に比例するので,有効重力 𝒈′ =𝒈 −𝑨 にまとめられる.「下」は 𝒈′ の向きである.
自由落下する系では 𝒈′ =0 で,重力が消えて見える(無重量状態).重力の場所による違いを無視できる小さな領域では,重力と加速の区別がつかない.これが等価原理の入口である.