問いしるべ
問いから始める物理 確率振幅から組み立てる量子力学(発展)

確率振幅から組み立てる量子力学(発展)

2状態系とハミルトニアン行列

著者:柚木芹香

問い

アンモニア分子 NHA3 は,3つの水素原子が作る正三角形の上に窒素原子が乗った,三角錐の形をしています.窒素原子は,水素の面の上側にも下側にもいられます.分子をひっくり返すと上と下が入れ替わるので,2つの配置のエネルギーは同じです.では,アンモニア分子は上か下のどちらかに決まっているのでしょうか.決まっていないとしたら,分子はどんな状態にあるのでしょうか.

考えてみる

古典的に考えると,窒素原子は水素の面という山を越えないと反対側へ行けません.山を越えるだけのエネルギーがなければ,窒素はずっと最初の側にいるはずです.

量子力学では,粒子は区別できない経路の振幅を足し合わせて動きます.窒素が山をくぐり抜けて反対側へ移る振幅は,小さくても0ではありません.すると,「上にいる」という状態は時間がたつと「下にいる」という振幅を少しずつ持つようになります.この節では,2つの状態のどちらにいるかの振幅が時間とともにどう変わるかを決める方程式を作り,アンモニア分子に当てはめます.必要な行列の計算は,数学の節「2×2行列の固有値と連立微分方程式」にまとめました.

振幅の時間変化を決める行列

窒素が上にいる状態を |1⟩,下にいる状態を |2⟩ とします.分子の回転や振動,電子の状態などは固定して考え,この2つを基底にとります.分子の状態 |ψ⟩ は,それぞれの基底にいる振幅 C1=⟨1|ψ⟩,C2=⟨2|ψ⟩ で決まります.列ベクトル C=(C1C2) にまとめ,|C1|2+|C2|2=1 とします.

短い時間 Δt の後の振幅は,前の振幅の重ね合わせです(振幅の結合規則で,基底を経由する経路の和).Δt→0 で何も変わらないので,その変化は Δt に比例すると考えて

Ci(t+Δt)=Ci(t)−iℏ∑jHijCj(t)Δt

と書きます.係数に −i/ℏ をくくり出したのは,次の約束のためです.

法則 振幅の時間変化

基底 |1⟩,|2⟩ にいる振幅 C1,C2 は

iℏdCidt=∑jHijCj

に従う.Hij をハミルトニアン行列という.行列で書けば iℏdCdt=HC である.

H が対角行列 (E100E2) なら,C1=C1(0)e−iE1t/ℏ です.これは前の題材で見た,エネルギー E1 の定常状態の振幅の回り方そのものです.名前のとおり,H は第13章の終わりで見たハミルトニアンと同じくエネルギーを表す量です.対角成分は「その状態にとどまる」振幅のエネルギーで,非対角成分 H12 は |2⟩ から |1⟩ へ移る振幅の大きさを決めます.

H は勝手な行列ではいけません.全確率の時間変化を計算すると

ddt(|C1|2+|C2|2)=1iℏ∑i,jCi∗Cj(Hij−Hji∗)

です.これがどんな C でも0になる,つまり粒子が消えたり増えたりしないためには

Hij=Hji∗

でなければなりません.このような行列をエルミート行列といいます.対角成分は実数で,H21 は H12 の複素共役です.

アンモニア分子の2つの準位

アンモニアに当てはめます.上と下は対称なので H11=H22=E0 です.移る振幅を表す非対角成分は,基底の位相を選び直せば実数にでき,H12=H21=−A(A>0)と書きます.

iℏdC1dt=E0C1−AC2,iℏdC2dt=E0C2−AC1

2つの式を足すと C1+C2 だけ,引くと C1−C2 だけの式になります.

iℏddt(C1+C2)=(E0−A)(C1+C2),iℏddt(C1−C2)=(E0+A)(C1−C2)

したがって,エネルギーの決まった定常状態は次の2つです.

ポイント アンモニア分子の定常状態

|II⟩=|1⟩+|2⟩2(EII=E0−A),|I⟩=|1⟩−|2⟩2(EI=E0+A)

どちらも,窒素が上にいる確率と下にいる確率が 1/2 ずつの状態である.上下の対称な重ね合わせのほうがエネルギーが低い.

山をくぐり抜ける振幅 A があるために,同じだった準位が 2A だけ離れた2つに分かれました.この準位の差に当たる光子 hν=2A は,実測で ν≈23.9GHz(波長約 1.3cm のマイクロ波)です.

左は水素の三角形の面に対して窒素が上にある基底|1⟩と,下にある基底|2⟩.右は結合Aが0のときのE₀と,A>0のときの上の準位E₀+A,|I⟩および下の準位E₀−A,|II⟩を示す.間隔は2Aである. 左は水素の三角形の面に対して窒素が上にある基底|1⟩と,下にある基底|2⟩.右は結合Aが0のときのE₀と,A>0のときの上の準位E₀+A,|I⟩および下の準位E₀−A,|II⟩を示す.間隔は2Aである.

窒素を上に置いた状態 |1⟩ から始めるとどうなるでしょうか.|1⟩=(|II⟩+|I⟩)/2 と分け,それぞれに自分のエネルギーの位相を付けて戻すと

C1=e−iE0t/ℏcos⁡Atℏ,C2=ie−iE0t/ℏsin⁡Atℏ

で,確率は P1=cos2⁡(At/ℏ),P2=sin2⁡(At/ℏ) です.窒素は上と下の間を,振動数 2A/h で行き来します.エネルギーの違う2つの定常状態の重ね合わせは,2つの振動のうなりとして時間変化するのです.

[図:結合Aと2つの配置にいる確率]

初期状態は基準の結合A_refとAが等しく,P₁=cos²(At/ℏ)とP₂=sin²(At/ℏ)を示す.t=0ではP₁=1,P₂=0である.スライダーでAを変えると,固定した時間軸上で行き来の周期が変わる.青の実線がP₁,橙の破線がP₂で,和は常に1である.

この模型が使えるのは,ほかの状態(分子の振動や電子の励起)へ移るエネルギーが,問題にしているエネルギー(ここでは 2A≈1×10−4eV)よりずっと大きいときです.アンモニアのほかの状態へ移るには 0.1eV 程度以上が要るので,2つの状態だけで十分よく近似できます.

電場の中の分子と共鳴

窒素が上にいるか下にいるかで,分子の電気双極子モーメント p の向きが逆になります.双極子の向きに電場(この節では大きさを E と書き,エネルギーの E と区別します)をかけると,2つの配置のエネルギーが ±δ(δ=pE)だけずれ,

H=(E0+δ−A−AE0−δ),E=E0±A2+δ2

となります(数学の節の例題3).δ が A よりずっと小さいときは E≈E0±(A+δ2/(2A)) で,上の準位はさらに上がり,下の準位はさらに下がります.電場が場所によって違うと,この位置エネルギーの勾配のために,2つの状態の分子は反対向きの力を受けて分かれます.室温では kBT≈0.03eV が 2A よりはるかに大きいので,2つの準位の分子はほぼ同数ありますが,こうして上の状態の分子だけを選び出せます.

選んだ |I⟩ の分子に振動する電場をかけ,2つの配置のエネルギーのずれを δ(t)=2δ0cos⁡ωt とします.基底を |I⟩,|II⟩ に取り替えると,ハミルトニアン行列は

(E0+AδδE0−A)(δ=δ(t))

です.電場は2つの定常状態をつなぐ非対角成分として働きます.ω0=2A/ℏ とし,振幅から定常状態の位相を除いて CI=γIe−i(E0+A)t/ℏ,CII=γIIe−i(E0−A)t/ℏ と書くと

iℏdγIdt=δ0(ei(ω+ω0)t+e−i(ω−ω0)t)γII

となります(γII の式はこの複素共役の位相).ω が ω0 に近いとき,ei(ω+ω0)t の項は速く回って平均すると効かないので捨てます.この近似は δ0 が ℏω0=2A よりずっと小さいときに使えます.共鳴 ω=ω0 では

iℏdγIdt=δ0γII,iℏdγIIdt=δ0γI

で,アンモニアの行き来と同じ形です.|I⟩ から始めると,|II⟩ にいる確率は

PII=sin2⁡δ0tℏ

です.上の状態の分子は,電場にエネルギー 2A を渡して下の状態へ移ります.電場の振動数を共鳴からずらすと,移る確率の最大値は小さくなります(演習5).

上の状態の分子だけを集めた箱にマイクロ波を通すと,この遷移で電場が強められます.これがメーザーで,可視光で同じことをしたのがレーザーです(同じ粒子の題材の誘導放出).逆に下の状態の原子や分子に光を当てれば,同じ仕組みで光を吸収します.光の振動数が準位の差に合ったときだけ吸収されるというボーアの条件(第29章)は,ここで振幅の方程式から出てきました.

ほかの2状態系

同じ形の行列は,いろいろな所に現れます.

  • 水素分子イオン HA2A+:1個の電子が,陽子1の近くにいる状態と陽子2の近くにいる状態.電子が陽子の間を移る振幅 A があると,対称な状態のエネルギーが A だけ下がる.A は陽子が近いほど大きいので,このエネルギーの下がりが陽子どうしを引き寄せ,化学結合になる(演習4).

  • ベンゼン CA6HA6:二重結合の位置が異なる2つの構造.どちらか一方ではなく,2つの重ね合わせになることで,エネルギーが下がって安定になる.染料の分子にも2つの構造の間で電子が移るものがあり,準位の差 2A が可視光のエネルギーに当たるので色が付く.

  • 磁場の中のスピン1/2:基底 |+⟩,|−⟩ で,磁気モーメントの大きさを m0 とすると

H=−m0(BzBx−iByBx+iBy−Bz)

となる.z 方向の磁場は対角成分(前の題材の歳差)に,x,y 方向の磁場は |+⟩ と |−⟩ をつなぐ非対角成分になる.回る磁場で |+⟩ から |−⟩ へ移すのが磁気共鳴(演習5)で,病院の MRI はこの原理を使っている.

2状態系で起こることは,どの例でも「対角成分の差」と「非対角成分の結合」の2つの量だけで決まります.

問いに戻る

アンモニア分子の窒素原子は,上か下のどちらかに決まってはいません.エネルギーの決まった状態は,上の状態と下の状態の対称な重ね合わせ(エネルギー E0−A)と反対称な重ね合わせ(E0+A)の2つで,どちらも上と下に半分ずつの確率でいます.窒素を上に置いて始めると,振動数 2A/h≈2.4×1010Hz で上と下を行き来します.きりたんの話の「行き来」はこれのことで,その振動数が時計の基準になりました.

ポイント ここまでのまとめ

  • 基底にいる振幅は iℏdCidt=∑jHijCj に従う.全確率が保たれるために,ハミルトニアン行列はエルミート Hij=Hji∗.

  • 対称な2状態 H=(E0−A−AE0) では,定常状態は (|1⟩±|2⟩)/2,エネルギーは E0∓A.移る振幅が準位を 2A に分ける.

  • 片方から始めると,P2=sin2⁡(At/ℏ) で行き来する.

  • 振動する外場は定常状態の間をつなぎ,共鳴 ℏω=2A で遷移が起こる.メーザー・レーザー・光の吸収・磁気共鳴の仕組み.

  • 水素分子イオンの結合,ベンゼンの安定性,スピンと磁場も同じ2状態系で表せる.