本体の節では,アンモニア分子の方程式を「足して引く」ことで解きました.これは,行列 𝐻 の固有ベクトルを見つける計算です.ここでは,どんな2×2のハミルトニアン行列でも同じように解ける手順をまとめます.行列とベクトルの積は,スピンと回転の題材の数学の節で導入しました.
固有値と固有ベクトル
𝑖ℏd𝐶d𝑡 =𝐻𝐶 で,𝐶 の向きを変えずに大きさだけ 𝐸 倍する列ベクトル,つまり 𝐻𝐶 =𝐸𝐶 を満たす 𝐶 があれば,𝐶(𝑡) =𝐶(0)𝑒−𝑖𝐸𝑡/ℏ は方程式の解です.各成分が同じ位相で回るだけなので,確率は時間で変わりません.これがエネルギー 𝐸 の定常状態です.
定理 数学の道具:固有値と固有ベクトル
正方行列 𝐻 に対して,0でない列ベクトル 𝐶 と数 𝐸 が
𝐻𝐶=𝐸𝐶
を満たすとき,𝐸 を固有値,𝐶 を固有ベクトルという.単位行列を 𝐼 =(1001) とすると,(𝐻−𝐸𝐼)𝐶 =0 が0でない解をもつ条件は
det(𝐻−𝐸𝐼)=0
である.2×2行列 𝐻 =(𝑎𝑏𝑐𝑑) では (𝑎−𝐸)(𝑑−𝐸) −𝑏𝑐 =0 という 𝐸 の2次方程式になる.
行列式が0の条件になる理由を確かめておきます.(𝑎−𝐸𝑏𝑐𝑑−𝐸)(𝐶1𝐶2) =0 は連立1次方程式で,1つ目の式から 𝐶2 = −(𝑎 −𝐸)𝐶1/𝑏 です.これを2つ目に入れると [𝑐−(𝑑−𝐸)(𝑎−𝐸)/𝑏]𝐶1 =0 で,𝐶1 が0でないためには (𝑎−𝐸)(𝑑−𝐸) −𝑏𝑐 =0 が必要です.固有値が決まれば,固有ベクトルは2つの式のどちらか一方から比 𝐶2/𝐶1 として求まります(もう一方は自動的に成り立ちます).最後に |𝐶1|2 +|𝐶2|2 =1 となるように大きさをそろえます.
エルミート行列 𝐻 =(𝑎𝑏𝑏∗𝑑)(𝑎, 𝑑 は実数)では,2次方程式を解いて
𝐸=𝑎+𝑑2±√(𝑎−𝑑2)2+|𝑏|2
です.根号の中は0以上なので,固有値は必ず実数になります.エネルギーが実数になるのは,全確率が保たれることの裏返しです.また,対角成分の差 𝑎 −𝑑 と結合 |𝑏| のどちらがあっても,2つの準位は近づけません.準位の間隔は |𝑏| があると必ず 2|𝑏| 以上になります.
ポイント 固有ベクトルは直交する
エルミート行列の異なる固有値に属する固有ベクトル 𝐶, 𝐷 は,𝐶∗1𝐷1 +𝐶∗2𝐷2 =0 を満たす.つまり ⟨I|II⟩ =0 で,2つの定常状態を新しい基底に使える.
練習1 𝐻 =(𝐸0−𝐴−𝐴𝐸0) の固有値と,規格化した固有ベクトルを,行列式の条件から求めよ.
練習2 𝐻 =(0−𝑖𝜀𝑖𝜀0)(𝜀 >0)の固有値と固有ベクトルを求めよ.
答え 練習1:(𝐸0−𝐸)2 −𝐴2 =0 より 𝐸 =𝐸0 ∓𝐴.𝐸 =𝐸0 −𝐴 では1つ目の式 𝐴𝐶1 −𝐴𝐶2 =0 から 𝐶1 =𝐶2,規格化して (11)/√2.𝐸 =𝐸0 +𝐴 では (1−1)/√2.本体の節の結果と一致する.練習2:𝐸2 −𝜀2 =0 より 𝐸 = ±𝜀.𝐸 =𝜀 では −𝜀𝐶1 −𝑖𝜀𝐶2 =0 から 𝐶2 =𝑖𝐶1,規格化して (1𝑖)/√2.𝐸 = −𝜀 では (1−𝑖)/√2.片方のベクトルの成分の複素共役をとることに気をつけると,1∗ ⋅1 +𝑖∗ ⋅( −𝑖) =1 +( −𝑖)( −𝑖) =1 −1 =0 で直交している.
連立1階微分方程式を解く
定理 数学の道具:𝑖ℏd𝐶d𝑡 =𝐻𝐶 の解き方
𝐻 が時間によらないとき,次の手順で解ける.
𝐻 の固有値 𝐸I, 𝐸II と規格化した固有ベクトル 𝐶I, 𝐶II を求める.
初めの状態を 𝐶(0) =𝛼𝐶I +𝛽𝐶II と分ける.係数は 𝛼 =𝐶I∗1𝐶1(0) +𝐶I∗2𝐶2(0) など(直交性から).
それぞれに位相を付けて足す.
𝐶(𝑡)=𝛼𝑒−𝑖𝐸I𝑡/ℏ𝐶I+𝛽𝑒−𝑖𝐸II𝑡/ℏ𝐶II
1つの成分だけの2階の方程式に直す方法もあります.𝑖ℏd𝐶2d𝑡 =𝐻21𝐶1 +𝐻22𝐶2 をもう一度 𝑡 で微分し,1つ目の式で d𝐶1d𝑡 を,2つ目の式で 𝐶1 を消すと,𝐶2 だけの2階の線形微分方程式になります.これは第7章の振動の方程式で,解は 𝑒−𝑖𝐸𝑡/ℏ の形の2つの和です.初めの条件は 𝐶2(0) と,元の方程式から決まる d𝐶2d𝑡(0) の2つです.演習3はこの方法で解いています.
ハミルトニアン行列が 𝑒±𝑖𝜔𝑡 のように時間で回る成分をもつときは,その回転を変数に吸収して,時間によらない行列に直せることがあります.本体の節の共鳴の計算や演習5がこの例です.
また,状態 𝐶 で測ったエネルギーの平均は,固有ベクトルに分けたときの確率 |𝛼|2, |𝛽|2 を使って ――𝐸 =|𝛼|2𝐸I +|𝛽|2𝐸II です.行ベクトル 𝐶∗(𝐶 の成分の複素共役を横に並べたもの)を使うと,これは ――𝐸 =𝐶∗𝐻𝐶 と書けます.
例題
アンモニア分子の2つの準位の差に当たる光の振動数は 𝜈 =2.39 ×1010 Hz である.ℎ =6.63 ×10−34 Js,1 eV =1.60 ×10−19 J とする.
本体の節の 𝐴 を eV で求めよ.
窒素を上に置いた状態から始めて,初めて下にいる確率が1になる時刻を求めよ.
温度 300 K の 𝑘𝐵𝑇(𝑘𝐵 =1.38 ×10−23 JK−1)と 2𝐴 を比べ,熱平衡での2つの準位の分子の数の比を見積もれ.
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考え方 準位の差は 2𝐴 =ℎ𝜈.行き来は 𝑃2 =sin2(𝐴𝑡/ℏ).数の比はボルツマン因子(第17章)で見積もる.
2𝐴 =6.63 ×10−34 ×2.39 ×1010 ≈1.58 ×10−23 J.途中で丸めずに計算すると,𝐴 ≈7.92 ×10−24 J ≈4.95 ×10−5 eV.
𝐴𝑡/ℏ =𝜋/2 より 𝑡 =𝜋ℏ/(2𝐴) =ℎ/(4𝐴) =1/(2𝜈) ≈2.09 ×10−11 s.
𝑘𝐵𝑇 =1.38 ×10−23 ×300 ≈4.14 ×10−21 J.2𝐴/(𝑘𝐵𝑇) ≈3.83 ×10−3 で,上と下の準位の数の比は 𝑒−2𝐴/(𝑘𝐵𝑇) ≈1 −3.83 ×10−3,ほぼ1である.
確かめ:(2) の時刻は光の周期 1/𝜈 のちょうど半分である.(3) から,熱平衡のままでは上の準位の分子がわずかに少なく,誘導放出より吸収が勝つ.メーザーで上の状態の分子を選び出すのはそのためである.
磁気モーメントの大きさ 𝑚0 のスピン1/2の粒子を,𝑥 方向の一様な磁場 𝐵 の中に置く.基底 |+⟩, |−⟩(𝑧 方向の上向き・下向き)でのハミルトニアン行列は 𝐻 =(0−𝑚0𝐵−𝑚0𝐵0) である.
定常状態とそのエネルギーを求めよ.
𝑡 =0 に |+⟩ にあった粒子が,時刻 𝑡 に |−⟩ で見つかる確率を求めよ.
磁気モーメントの大きさが電子と同じ 𝑚0 =9.27 ×10−24 JT−1 の粒子について,𝐵 =1.0 ×10−3 T,ℏ =1.05 ×10−34 Js のとき,初めてスピンが下向きになる時刻を求めよ.
[図:横向きの磁場でスピンが下向きまで回る]z軸は上向き,一様な磁場Bはx軸の正の向き.t=0のスピンは+zの|+⟩で,その後x軸のまわりを回って−zの|−⟩になる.右の円はx軸の正の側から見た回転で,Bは手前向き,+zから+yを経て−zへ時計回りに進む.時刻の数値は入れていない.
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考え方 アンモニアの行列で 𝐸0 =0,𝐴 =𝑚0𝐵 としたものと同じ形である.
練習1と同じく,(|+⟩+|−⟩)/√2 がエネルギー −𝑚0𝐵,(|+⟩−|−⟩)/√2 がエネルギー +𝑚0𝐵.これは 𝑥 方向の上向き・下向きの状態で,磁場の向きのスピンのエネルギーが低いことと合う.
本体の節と同じく 𝑃− =sin2(𝑚0𝐵𝑡/ℏ).
𝑚0𝐵𝑡/ℏ =𝜋/2 より
𝑡=𝜋ℏ2𝑚0𝐵=3.14×1.05×10−342×9.27×10−24×1.0×10−3≈1.8×10−8s
確かめ:𝑧 方向のスピンが 𝑥 方向の磁場のまわりを角振動数 2𝑚0𝐵/ℏ で歳差運動すると考えると,半回転に 𝜋ℏ/(2𝑚0𝐵) かかり,(3) と一致する.前の題材で見た歳差の角振動数と同じである.
アンモニア分子に,窒素の上下の向きに沿った電場をかける.2つの配置のエネルギーは 𝐸0 ±𝛿(𝛿 =𝑝E,𝑝 は電気双極子モーメントの大きさ,E は電場の強さ)となり,ハミルトニアン行列は 𝐻 =(𝐸0+𝛿−𝐴−𝐴𝐸0−𝛿) である.
2つの準位のエネルギーを求めよ.
𝛿 が 𝐴 よりずっと小さい場合と,ずっと大きい場合で,準位が E にどう依存するかを述べよ.
電場の強さが場所 𝑥 によって変わるとき,𝛿 が 𝐴 よりずっと小さい範囲で,上の準位の分子が受ける 𝑥 方向の力を求めよ.どちらの向きに押されるか.
[図:電場で分かれる2つの準位]左は与えられた行列成分.右は横軸が電場の強さℰ,縦軸がエネルギー.2つの準位はℰ=0でE₀±Aから水平に始まり,電場が強い所では破線の直線E₀±pℰに近づく.力の向きと準位の式の数値は入れていない.
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考え方 行列式から固有値を出し,小さい量で展開する.準位のエネルギーを分子の位置エネルギーとみなし,力はその勾配に負号を付けたもの.
det(𝐻−𝐸𝐼) =(𝐸0−𝐸)2 −𝛿2 −𝐴2 =0 より
𝐸=𝐸0±√𝐴2+𝑝2E2
𝛿 が 𝐴 よりずっと小さいとき,√1+𝑥 ≈1 +𝑥/2 より 𝐸 ≈𝐸0 ±(𝐴+𝑝2E22𝐴) で,ずれは E2 に比例する.𝛿 が 𝐴 よりずっと大きいときは 𝐸 ≈𝐸0 ±𝑝E で,E に比例する.このとき固有ベクトルはほぼ |1⟩ か |2⟩ で,窒素は上か下に決まり,ふつうの双極子のようにふるまう.
上の準位の位置エネルギーは 𝑈(𝑥) ≈𝐸0 +𝐴 +𝑝22𝐴E(𝑥)2 なので
𝐹=−d𝑈d𝑥=−𝑝22𝐴dd𝑥(E2)
上の準位の分子は電場の弱い方へ押される.下の準位の分子は符号が逆で,電場の強い方へ引かれる.
確かめ:(2) の近似の条件は 𝑝E/𝐴 が1よりずっと小さいことで,捨てた項はその4乗の程度である.アンモニアでは 𝑝 ≈5 ×10−30 Cm,𝐴 ≈8 ×10−24 J なので,境目の電場は 𝐴/𝑝 ≈2 ×106 Vm−1 程度になる.メーザーでは,中心で電場が0になり外へ向かって強くなる電極の間に分子線を通し,上の準位の分子を中心に集める.
ポイント ここまでのまとめ
𝐻𝐶 =𝐸𝐶 を満たす固有ベクトルが定常状態,固有値 𝐸 がそのエネルギー.固有値は det(𝐻−𝐸𝐼) =0 から求める.
エルミートな2×2行列の固有値は 𝑎+𝑑2 ±√(𝑎−𝑑2)2+|𝑏|2 で必ず実数.異なる固有値の固有ベクトルは直交する.
𝑖ℏd𝐶d𝑡 =𝐻𝐶 は,初めの状態を固有ベクトルに分け,それぞれに 𝑒−𝑖𝐸𝑡/ℏ を掛けて足せば解ける.1成分の2階の方程式に直してもよい.
平均エネルギーは ――𝐸 =𝐶∗𝐻𝐶.
外場によるずれは,結合 𝐴 より小さいうちは2乗で,大きくなると1乗で効く.